戦後の祖国の共産国化により、帰る故郷を失い英国に残ることになったL.クズミッキ。ノートンで清掃係として働いていた彼は、彼の本職・・・内燃機関のエキスパートとしてその腕をノートンレース部門で振るう機会を得ました。ポーランド生まれの偉大なエンジニアの数奇な人生を、振り返る企画の最終回です。

クズミッキの加入により、"実践主義"から"理論主義"へ

※ 前編は、下記のリンクからお読みください。

長年、ノートンのレース部門を牛耳ってきたジョー・クレイグは、いわば叩き上げの男でした。1920年代は自身がライダーとしてロードレースなどで活躍。ライダーとしての引退後の25年ほどはノートンワークスチームの指揮をとり、GPやマン島TTで幾多の勝利を手中に収めることに成功しました。

気難しい人物であったことでも知られるクレイグは、研究畑育ちのエンジニアというよりは「やってみなければわからない」という実践主義的な開発者でした。さまざまな本の記述をたどると、クレイグは基礎理論や研究の成果よりも、自分がロードレースの現場に立って得た経験や「勘」などを大事にするタイプ・・・だったようです。

1932年、ノートン車上でウォルター・ハンドレーと握手をするスタンレー・ウッズ。ハンドレーの右の背広の人物が、"無敵艦隊"ことノートンワークスチームを率いたジョー・クレイグその人です。

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そんなクレイグが、アカデミックな内燃理論の専門家であるクズミッキを彼のレース部門に入れたのは、ある意味で「奇跡」だったと評する人もいました。

しかし、自身の主義主張を引っ込めても、清掃係だったクズミッキの頭脳に賭ける・・・このクレイグの監督としての判断の正しさは、後に歴史が証明することになりました(社外のエンジニアでもあるマカンドレス兄弟の作である"フェザーベッド"フレームの1950年型ワークスマシンへの採用も、クレイグの柔軟さの面があらわれたエピソードでしょう)。

1950年の間にクズミッキが1929年にアーサー・キャロルが生み出したノートン単気筒に与えた「魔法」の核心は、彼の得意分野である燃焼室の改良でした。今日、混合気の燃焼効率を上げるための「スキッシュ効果」については多くのチューニング好きの知るところですが、コンピュータ解析などがなかった時代にかかわらず、クズミッキは当時の技術で求めうる最も理想的な燃焼室設計を導き出す理論を自分のものにしていたのです。

ノートンワークス活動終焉期の1954年型ノートンの燃焼室とピストンのイラスト。燃焼室外周、そしてピストンクラウンの「フラット」部の設計が最適な混合気の渦流を発生させ、単気筒エンジンからより多くの出力を絞り出すことを可能にしていました。

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強大なパワーを誇るジレラやMVなどの欧州製レーサー相手に、ノートンはフェザーベッドフレームのハンドリングの良さと、スキッシュ効果で出力を向上させた単気筒エンジンで対抗しました。そしてロードレーサーとしてのトータルパッケージの良さと、新たにエースライダーとなったジェフ・デュークの才能により、ノートンワークスは1951年に350ccと500ccのライダータイトルをダブルで獲得。そして1952年には350ccクラスのライダータイトルを再び手にすることに成功しました!

2輪から4輪へ、活躍の舞台を移す・・・

クズミッキの「スキッシュ・ヘッド」を新採用することで、1951年型以降のノートンのワークスマシンは全く新しいものに生まれ変わったと言えるでしょう。なんと350ccエンジンでは旧型の30馬力から一気に36馬力へと、20%も最高出力がアップしたのです!

1950年代初期のノートンの栄光は、ライダーのジェフ・デュークの走り、フェザーベッドフレームを生んだマカンドレス兄弟の技術、そしてワークスチームを率いたジョー・クレイグへの称賛とともに語られることがほとんどです。しかし、ほぼ語られることのないクズミッキのエンジン性能向上への貢献なしには、これらの栄光を掴み取ることはきっと不可能だったでしょう・・・。

ノートンのエース、ジェフ・デュークは、「彼(クズミッキ)がノートン単気筒を改良したこと、とりわけ350ccモデルを改良したことに対して、非常に大きな尊敬をしている」と語っています。

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クズミッキはノートンレース部門で、同社の"秘密兵器"でもあるGPレーサー用4気筒エンジンの設計にも関与しました。しかし、ノートンは財政面の問題からGPのワークス活動を停止することになり、クズミッキの4気筒は完成に至らぬまま歴史の闇の中に消える運命をたどりました。

ノートンに続き、クズミッキの才能を評価して起用することになったのは、ノートンの大株主でもあったトニー・ヴァンダーベルでした。4輪F1に情熱を傾けていた彼は、クーパー製シャシーにフェラーリエンジンを搭載する「ヴァンウォールF1」でレース活動をしていましたが、新しいF1レギュレーションに合致する新規エンジンの設計をクズミッキに依頼したのです。

1954年にクズミッキがデザインしたヴァンウォールF1エンジン。ヘアピンバルブスプリングや4連アマルGPキャブレターなど、まるでノートンマンクス単気筒を4気筒化したような内容でした(ビッグエンドはメタル軸受、バルブトレインがカムギア式などの違いはありますが)。

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1955年から参戦した新型ヴァンウォールF1は、2.3リッターの排気量から235馬力の最高出力を発生。しかしエンジンは実力十分ながら、クーパー製シャシーの戦闘力不足によりデビュー年は活躍することができませんでした。

クズミッキの「作品」が活躍の契機を得たのは、クーパーに変わるシャシー作りを託されたコーリン・チャップマンと空力専門家のフランク・コスティンの加入後でした。スペースフレーム構造を持つ1956年型VW2は、表彰台まであとひとつの4位をベルギーGPで獲得。翌1957年のVW5はスターリング・モスが3勝を記録。着実にヴァンウォールF1チームは、その実力を向上させていきました。

チーム初勝利となった1957年英国GPでの、ヴァンウォールVW5。

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そしてアルコール燃料が禁止された1958年シーズン、ヴァンウォールF1チームはモスとブルックスがそれぞれ3勝を記録。惜しくもドライバータイトルはマイク・ホーソーン(フェラーリ)に奪われ、モスは1点差の2位、そして3位にブルックスという結果に終わります。しかしこの年度からスタートしたコンストラクターズタイトルは、見事ヴァンウォールが獲得することになりました。

1920年代以来の英国車によるGPシリーズ制覇は、クズミッキにとってはエンジニアとして2輪の最高峰レースである世界ロードレースGP制覇に次ぐタイトル獲得でもありました。それはエンジン開発者としては最高の栄誉のひとつと言えるでしょうが、彼がそのとき何を思ったのかはわかりません・・・。

オーナーのヴァンダーベルの健康上の理由もあり、ヴァンウォールF1チームは1960年を最後にF1の舞台から去ることになりました。そしてクズミッキは英ルーツ・グループに協力し、ミニのライバルである「ヒルマン・インプ」のOHCエンジン開発を担当しました。

ヒルマン・インプの開発メンバー。左から4人目の人物が、レオ・クズミッキです。余談ですが、彼が生み出したヒルマン・インプ用OHCエンジンは、英国ではサイドカーレース用にも好んで使われています。

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その後、クズミッキはクライスラーに移籍してエンジニアとして働き続け、そして1982年5月22日にこの世を去りました。人生の途中から故郷ポーランドを離れることになってしまったクズミッキは、2輪史、4輪史、そしてモータースポーツ史のなかで語られる機会が少なく、その人物像は明らかにはなっていません。しかし彼の残した業績は、すべてエンジン、そしてモーターサイクルを愛する者の尊敬を集めるに十分なものでしょう。そのことに異論を挟む方は・・・きっといないと思いたいです。(完)

Geoff Duke Does It Again (1952)

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Monza - Moss' New Vanwall Triumph (1957)

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