ジーン・ロメロ (1947-2019) はモーターサイクルドキュメンタリーの名作 "ON ANY SUNDAY" (邦題・栄光のライダー) にも準主役級で登場する'60〜'70年代の大スター。'70年のGNC = 全米チャンピオンを獲得、'75年に伝統のロードレース・デイトナ200で優勝するなど数々の偉業を成し遂げた殿堂入りライダーでもあります。本日は、つい先日急逝し多くのレースファンがその死を悼む彼のことを、10年前にカリフォルニアで邂逅した筆者の得た "個人的な体験" も交えてお話ししましょう。

愛称は "ブリトー" ・英国車でのTTマイスターだから "t" がふたつ。

ドイツとヒスパニックの血をひくジーン・ロメロは、生涯を通して (メキシコ料理から) "ブリトー" という愛称で呼ばれたことが日本でもよく知られていますが、実はその綴りは "BURRITO" ではなく "BURRITTO" が正解。トライアンフ (英国製 = ブリット・バイク) を駆り、GNC初優勝を遂げたキャッスルロック戦をはじめ、特にTTレースで才能を現した彼に相応しいトリプル・ミーニングです。

ジーンは1947年5月22日、カリフォルニア州はサンフランシスコ近郊の街マーティネズ生まれ。世代は違いますが著名な大リーグ選手のジョー・ディマジオと同郷です。とりたてて裕福ではない大家族の一員として育った彼が、自身初めてモーターサイクルを手に入れた原資は、ひと夏のアルバイト・・・高級住宅地の芝生の刈り込みやプール清掃の収入から捻出したものだったとか。

彼の活躍した'60~'70年代、全米の各地域よりはるかに多くのレースが毎週開かれる、当時ダートトラック・ムーブメントの中心だったカリフォルニア出身、"エルヴィス級" と称された容姿と若きカリスマ性、またごく普通の中流階級出身というバックグラウンドも相まって、幅広い層からの絶大な支持を得た、まさに一流アスリート = スーパースターの先駆けといっても過言ではないでしょう。

業界外からのスポンサーシップという概念を生み出した先駆者。

彼は全米トップレベルのコンペティターであると同時に、ビジネス・マーケティング・プロモーションといった分野でも非凡な才を発揮。アメリカン・モーターサイクルレーシングの世界に、外からの注目を集めることで "スポンサー" を呼び込み、レースシーンそのものの成長を計るようなアイディアをまとめ上げていきます。本日トップの広告写真もそのひとつですし (レーシングギアを身にまとったまま高級ステレオセットをアピール!) ビールやタバコ、アパレルブランドなど、様々な企業が2輪モータースポーツに対し、広告媒体としての価値を見出すきっかけをもたらしました。

ルーキー時代の#25ジェイ・スプリングスティーンを従え走るイーブル・クニーブルカラー#3がジーン・ロメロ。現代では通用しないジェット型ヘルメットに操作感重視の素手(!!)。マシンはハーレーダビッドソンXR750。

彼個人のスポンサー第1号となったのは、同じ2輪業界で全米を股にかけ、自身のスタントショーを手がけ名を馳せていた "イーブル・クニーブル" です。そもそもマート・ローウィルらの駆る自国製マシン = ハーレーダビッドソンに敢然と立ち向かうロメロとトライアンフ、という当初のイメージ作りも、メイカーからの支援を得るための彼の巧みな計画の一部でした。またデイトナ200を共に勝ち取ることとなる "ストロボライン" のUSヤマハとの良好な関係や、後にアメリカン・ホンダがその認知度を全米に浸透させていく過程でも、たいへん大きな役目を果たした人物だと言えるでしょう。

ファクトリーホンダとRS-Dシリーズを栄光へと導いた名アドバイザー。

自身のプロ・レースキャリアを'81年シーズンに終えたジーン・ロメロが次に存在感を示すのは、偶然にも彼と入れ替わるようにしてGNC: 全米ダートトラック選手権への挑戦をスタートさせた、アメリカン・ホンダのファクトリーダートトラックチーム、そのアドバイザーとしてでした。

当初はNS750と呼ばれる水冷エンジンの2気筒マシンを、名チューナーであるジェリー・グリフィスとともに意気揚々と開発・投入したホンダファクトリーでしたが、そのころすでに数十年のノウハウを積み重ねていたアメリカン・・・マシンもライダーもビルダーもチューナーも・・・の前になす術無く、想像を遥かに超える大苦戦を強いられることとなります。

このままでは王者ハーレーダビッドソンからチャンピオンシップを奪取し、アメリカでのホンダブランドのイメージアップを図るどころか、決勝に残る事もままならないという危機的状況を打破するため、次世代のファクトリーマシン "RS750D" 開発に向けたアドバイザーとして白羽の矢が立ったのが、様々なメイカーのマシンを巧みに乗りつなぎ、現役生活を終えたばかりの元全米チャンピオン "ブリトー" だったのです。

その後のアメリカンホンダとRS-Dの活躍・・・ハーレーの牙城を打ち破り幾度もの全米チャンピオンに輝くまでの軌跡・・・については良く知られていますし、機会があればまた別の場面で触れることとしましょう。時は流れ2010年代、下の写真はハワートン・カワサキチームのメンバーとそのマシンについての意見を交わすジーン・ロメロの姿。現在はナンバー4を纏うブライアン・スミスがナンバー42で、このグラフィックとマシン形状・・・おそらく2016シーズン中のヒトコマでしょう。

ここ何年かの全米選手権を大いに湧かせるカワサキ・ニンジャ650の秘める可能性にそもそも注目したのは、かつてスコット・パーカーらを全米チャンプの座に押し上げた元ハーレーファクトリーの名チューナー、ビル・ワーナーですし、その潜在的な能力をチャンピオンシップ・レベルにまで研ぎすましたのは、ホンダファクトリーと苦楽を共にしたこれまた名チューナーのスキップ・イークン。

リッキー・グラハムと恊働したこともあるチーム代表リック・ハワートンの手腕や、もちろん現役トップランカーである同チームのエースライダー、ブライアン・スミスの類い稀なる能力あってのことではありますが、ジーン・ロメロからの助言たるや、特別な重みある場面だったのかもしれません。

その後は西海岸中心にレースを主催。現場で彼が示した"美しき先達の姿"。

引退後の数年間はアメリカンホンダと恊働し、またごく短期間4輪レースにも参加したジーンですが、その後は自身のレースプロモーション会社を設立。各地のフェア会場などと連携してのモーターサイクル・レースイベントを自ら企画するようになります。そのシリーズとは "Gene Romero's West Coast FLAT TRACK SERIES" 。

西海岸出身の元トップライダーたちは、自身の知名度で人集めを図る戦略でシリーズ名を決める安易?ド直球?なケースが多く、ワシントン州では "Mickey Fay's Northwest Extreme Flattrack Racing Series" が、南カリフォルニアでは "Eddie Mulder's West Coast Vintage Dirt Track Series" が・・・どれも目眩がする長めのネームですけど・・・などなど現在も間断なく行われており、AFTの開催数こそ中西部に及ばないものの、'80年代ごろの "ダートトラック・プライムタイム" と呼ばれた時期の全米選手権の周囲に存在した、レベルの高いローカルレーシングの雰囲気を今に残しています。

こちらのチラシはラスベガス市内のサウスポイント・カジノリゾートという大型ホテル内にある、アリーナ施設で企画されたインドア・ショートトラックレースのもの。ウィンターシーズンであっても外気温を気にせず開催できますし、コンクリート路面ならコンディション維持も容易。そして通常なら2輪レースなど行われない会場でのイベントということで、新たな層へのアピール力も十分です。アイディアマンであり名プロモーターとなったジーン・ロメロの面目躍如といったところでしょう。

Gene Romero's Dirt Track at South Point Vintage Main

youtu.be

彼のシリーズはショートトラックのみではなく、ハーフマイル戦や年に一度のマイル戦なども行われます。2009年シーズンの最終戦はカリフォルニア州ポモナの1,000m競馬場を使ってのハーフマイル戦。全米選手権最終戦との共催で行われ、主要なレースクルーはこのWCFTSの専任スタッフである赤シャツ組が担当していました。

さてポモナでの1,000mハーフマイル戦、筆者は幸運にもインフィールドから終日眺める機会を持ったのですが、そこで大変印象的な、その後の自分自身の方向性を決めるほどの場面を、一日の中で幾たびも目にすることができました。

レースの合間に撒水車がコースに出る→助手席にジーン・ロメロ。レース中に誰かが転倒して赤旗中断→コース上をスタッフのXR100が逆走してアクシデントの現場に急行→転んだライダーを後ろに乗せるか、自走できるならマフラーを足で押してジーン・ロメロが帰ってくる。

誰よりも動いているのがジーン・ロメロ。
ジーンと来ました。
ショートトラックじゃないんです。
1,000mの競馬場を一日中、主催者で元全米チャンピオンが走り回ってる。
メロメロです。

メインプログラムのAMA/GNC決勝レースは押しに押して、フィニッシュが23時過ぎとかだったでしょう。帰り際に彼と話す時間があったので、なぜそこまで自分でやろうとするのか聞いてみました。

キミは知らないかもしれないが、実は私も40年ほど前に全米チャンピオンだったことがあるんだ。つまりココにいる誰よりもこのスポーツに詳しい人間のひとりのはずだし、主催者ってのは他の誰よりも大きな責任があるわけだからね。

謙虚。キッパリ。美しいし正しい。痺れました。"スパイダーマン" のベンおじさんが言うところの "大いなる力には大いなる責任・論" クラスの衝撃。あの日そこにジーン・ロメロがいなかったら、今の私や主宰レースFEVHOTS: Far East Vintage Hotshoe Seriesは存在しなかったかもしれません。

GNC決勝レースをターン4の外側から見守るジーン・ロメロ、隣の黒シャツは当時AMAレースディレクターだった元ナンバー42のスティーブ・モアヘッド。

ありがとうジーン!
さよなら"ブリトー"!