1/4マイル(約400m)の速さを競うドラッグレースは、特にアメリカでは人気の高いモータースポーツです。そして2輪のドラッグレースというと、伝統的にハーレーダビッドソンをベースにしたマシンの人気が高いですが、かつて1970年代には英国のノートンツインを搭載したドラッグレーサーが活躍し、カリスマ的な人気を誇っていたのです・・・。

賭けレースからスタートしたキャリア

20世紀初頭からのマン島TTでの活躍、そして世界ロードレースGP(現MotoGP)などでの活躍から、ノートンのモータースポーツ活動といえば"ロードレース"を多くの人が真っ先に思い浮かべることでしょう。

しかし1970年代のアメリカでは、ノートンといえばドラッグレース!! での活躍を思い浮かべた方も多かったと思われます。そんなイメージのけん引役を彼の地で果たしたのが、サンセットモーターズのT.C.クリステンソンでした。

1975年、"ホグスレイヤー"を走らせるT.C.クリステンソン。

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ウィスコンシン州のミルウォーキーとイリノイ州のシカゴの間・・・ミシガン湖の西岸にあるケノーシャに1943年に生まれ、同地で育ったクリステンソンは15歳でモーターサイクルに乗り始めました。彼がライダーとなるきっかけとなったのは、後部座席にブロンドの美女を載せ、颯爽と走るトライアンフツインを見たこと・・・だったそうです。

1960年代に地元のBSAディーラーで働くようになった彼は、仲間たちの影響もあり"イリーガル"な草ドラッグレースを楽しむようになります。お金やビールを賭けるレースに熱中したクリステンソンですが、やがて警察との追いかけっこに懲りて、本格的な競技としてのドラッグレースに彼はステージを移すことになりました。

その後クリステンソンは、ジョン・グレゴリーが経営するノートンディーラーの「サンセットモーターズ」に移ることになりました。チューナーとして優れた腕の持ち主だったグレゴリーと活動したクリステンソンは、メキメキとドラック業界で頭角をあらわすことになります。そして1969年には、クリステンソンがグレゴリーから同店の経営権を買うことになりますが、グレゴリーとのドラッグレースにおける協力関係は継続しました。

数々の世界記録を樹立!

サンセットモーターズのノートンは、インディ500などの4輪レース界で活躍した"オッフィー"ことオッフェンハウザー4,200cc4気筒用のフューエルインジェクションを流用するなど、様々な工夫が施されているのが特徴でした。1969年にクリステンソンが駆ったスタンダードのボア・ストロークの750ccのノートンは、9秒台というレコードを残しています。

そしてクリステンソンは、とあるイベントで見たダブルエンジン(2機がけ)のトライアンフ・ドラッグレーサーからインスパイアを受け、グレゴリーとともに"ホグスレイヤー"と呼ばれることになるダブルエンジンのノートンを製作することになりました。

ツインエンジンのホグスレイヤー。300馬力以上の出力をマークしたと言われています。

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ドラッグレース界で人気のハーレーダビッドソンVツイン搭載車を殺すポテンシャル・・・ということから"ホグスレイヤー"という名前になったわけですが、事実サンセットモーターズのドラッグレーサーはその名にふさわしい活躍をしました。ケノーシャは自動車産業の町であり、多くの技術力のある工場が周囲にあることは、彼らがホグスレーヤーを作ることで大きなメリットとなったのです。

1970年初頭から彼らはいくつかのホグスレイヤーを作りましたが、第3バージョンの1972年型には多くのスペシャルな装備が与えられています。ドラッグ用スリッパークラッチ、フューエルインジェクション、地元の自動車ブランドであるランブラー用オーバードライブユニットを改造した2速ギアボックス、そして当時のスタンダードなタイヤの倍ほど幅広な8インチ幅ドラッグ用スリックなど、これらの装備はホグスレイヤーがライバルたちに先駆けて採用した装備でした。

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総排気量1,620ccのエンジンは、ニトロ燃料を使うことで300馬力以上を発生。クリステンソン1972年のNHRA米国選手権で優勝し、翌1973年にはケンタッキー州のボウリンググリーンでのNHRA米国選手権で、7.83秒!という当時としては驚異的な記録をマークしています。

ホグスレイヤーとクリステンソンが人気を博したのは、その速さだけではありませんでした。彼はホグスレイヤーの横にブロンドの美女を立たせ、彼本人もミラーサングラスをかけたクールなルックスで周囲を魅了したのです。なおバンス&ハインズで著名な、ドラッグレース界のレジェンドのひとりであるテリー・バンスも、ティーンエイジャー時代にクリステンソンにあこがれた者のひとりでした。

当時のノートン製造元のNV(ノートン・ビリアース)はホグスレイヤーの活躍を喜び、クリステンソンとグレゴリーを英国に3度招いています。そしてホグスレイヤーは凱旋的なデモ走行を、生まれ故郷の英国で披露して現地でも人気となりました。しかしこれら華々しい活躍の背後にはすでに、ホグスレイヤー伝説の終焉させる暗い影が迫っていたのです。

T.C. Christenson twin Norton engined nitro top fuel drag bike named the "Hogslayer" early 70's

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1975年にNVは、トライアンフと合併してNVT(ノートン・ビリアース・トライアンフ)となりました。1970年代に入ってからは英国自動車産業は深刻な不景気が続き、経営が傾いた両社は統合することでそんな難局を乗り越えようとしたのです。しかし、その後1980年代の訪れを待つことなくNVTは瓦解することになりました。

ブランド消滅でノートンの新車供給が途絶えたことは、サンセットモーターズのドラッグレース活動の資金源が途絶えることを意味します。そして1970年代後半からは、基本設計が優れた日本製4気筒エンジンに過給器(スーパーチャージャー)を組み合わせたドラッグレーサーが台頭。1970年代の"ダブルエンジン"時代を代表するモデルのひとつだったホグスレイヤーは、今度は屠殺される側にまわることになったといえます。

ドラッグレース界における貢献が認められ、クリステンソンは2005年に米AMAの殿堂入りを果たしています。そして現在もサンセットモーターズはケノーシャの地で、ビンテージのノートン&トライアンフツインのスペシャリティーショップとして存続しています。

ロードレース以外のモータースポーツでの活躍・・・ノートンOHVツインのドラッグレースにおける1970年代の栄光を支えた存在として、今でもホグスレイヤーは多くのノートンファン・・・だけでなく多くの英国車ファンの誇りなのです。