戦後、世界ロードレースGP(現MotoGP)が成立した1949年から10年を経て、1959年からホンダは日本のメーカーとしては初めてGPへ挑戦しました。この連載は、今日に至るまでホンダのマシンに乗って世界タイトル(個人)を獲得した英雄たちを紹介するものです。今回はホンダ車に乗った日本人ライダーとしての初のGP王者となった、青木治親です!

青木3兄弟の末弟!

1976年の青木治親は、兄の青木宣篤、青木拓磨とともに世界ロードレースGPで活躍した"青木3兄弟"の末弟です。兄たち同様ポケバイで少年時代から頭角を現し、1992年からロードレースデビュー。翌1993年には国際A級に特別昇格し、世界GP125ccクラスフル参戦をこの年から開始しています!

デビュー年は125ccクラス年間ランク14位、続く1994年は最終戦で初表彰台(3位)を獲得し年間ランク12位となった青木治親ですが、1995年は7勝を記録する大躍進ぶりで見事ホンダ車に乗った日本人ライダーとして初のタイトルを獲得しました!

1995年の世界ロードレースGP125ccクラスで戦った青木治親。

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GP引退後、オートレーサーとして活躍中!

1996年の125ccクラスでは2勝にとどまりますが、安定した成績をシーズンとおして残してタイトル防衛。過去の日本人ライダーのなかで、GPタイトルの防衛に成功したのも青木治親が唯一の例となっています。

1997年からは250ccクラスにステップアップしてフル参戦。初年度は年間ランク8位、1998年はクラス初表彰台(3位)をオランダGPで記録してランク5位という成績をおさめています。1999年からはTSRホンダで500ccクラスにフル参戦しますが、年間15位にとどまりました。

2000年はドゥカティに乗り、世界スーパーバイク選手権に参戦(年間18位)。2001年からは再びGPに復帰し、2気筒のホンダNSR500Vで奮闘し年間17位となりました。2002年は250ccクラスをホンダで走りますが(年間14位)、この年を最後に青木治親はGPマシンのシートを失うことになりました

ロードレーサーとしての転機を迎えた青木は、ひとつの決断をします。それは生涯プロのライダーとしてあり続けるための選択として、オートレーサーになる道を選ぶことでした。2003年にオートレース選手養成所に第29期生として入所した青木治親は、2004年8月にオートレースデビューを果たしています。

川口に所属する青木治親は、2006年のキューポラ杯争奪戦(川口)、そして2011年の共同通信社杯プレミアムカップで最高グレードのGIを制覇しています。バイクとともに走り続ける人生を歩むことを選んだ青木治親を、バイクファンのひとりとして応援し続けたいです(動画は2012年に公開された、青木治親のインタビューです)。

一生ライダーでいたい 青木治親選手

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