戦後、世界ロードレースGP(現MotoGP)が成立した1949年から10年を経て、1959年からホンダは日本のメーカーとしては初めてGPへ挑戦しました。この連載は、今日に至るまでホンダのマシンに乗って世界タイトル(個人)を獲得した英雄たちを紹介するものです。今回は、カワサキで4度タイトルを獲得した後、38歳!で更に1つのタイトルをホンダに乗ってキャリアを加えたドイツのレジェンド、アントン・マンクです。

メカニックとしてスタートしたGPのキャリア

1949年にドイツのイニング・アム・アマーゼーで生まれたマンクは、11歳で初めてバイク(独DKW RT125)に乗りました。しかし、彼が10代のころに最も熱中したのはスキー・ボブリングというスポーツでした。

この競技は自転車式のフレームに、車輪の代わりとなるソリをつけた乗り物で、ゲレンデを滑り降りるウインタースポーツであり、マンクは16歳のころにドイツ国内王者、そして欧州ジュニア王者になるほど優れた選手でした。

ただ、スキー・ボブリングだけでなく、バイクに対する興味を維持し続けていたマンクは50ccの独クライドラーでレースにも挑戦しています。その活動の中で、1969年にマンクはゼップ・シュレーゲルというディーター・ブラウンのメカニックと知り合いになりました。

1970年125ccクラス、1973年250ccクラスのGP王者となるD.ブラウンを支えたシュレーゲルは2ストロークチューニングの達人であり、若きマンクは彼の下でエンジニアリングを知識と技術を学ぶことになりました。また1970年にマンクはD.ブラウンのメカニックとなり、コンチネンタルサーカスの一員になったのです。

SMZ 250とS.シュレーゲル、D.ブラウン、そしてA.マンク(左から)。

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同じくブラウンのメカニックだったアルフォンス・ゼンダーを加えたメカニック3人衆は、やがて彼ら独自のマシンでGPに参戦することを考えるようになりました。そしてシュレーゲル、マンク、そしてゼンダーのイニシャルを合わせた「SMZ 250」が完成します。マンクはSMZ 250のライダーも務めることになり、彼はアウグスブルクの飛行場で行われたレースで人生初の優勝を経験することになりました。

カワサキKR250/350の黄金時代

マンクは1975年にヤマハ SMZ 350を駆り、見事ドイツの国内チャンピオンに輝きます。それはスキー・ボブリングで鍛えたマンクの「ライディング」のセンスが、ロードレースの分野でも開花した瞬間でした。

マンクのライダーとしての世界GPデビューも、SMZに乗って1975年に果たされます(オーストリアGP350ccクラスで6位入賞)。翌1976年はモルビデリに乗り125ccクラスに参戦。見事ドイツGPでキャリア初となるGP優勝を記録しました。

1977年は125ccクラスをモルビデリ走り、500ccクラスも当時プライベーターの間で大人気だったスズキRG500で2戦参加しました。500ccクラスのドイツGPで8位、イタリアGPで10位に入ったマンクの走りを見たカワサキの関係者は、その非凡さを見抜いて翌1978年からワークスKR250/350のシートを与えることになったのです。

1978〜1979年の2年間は、偉大なカワサキのエースライダー、コーク・バリントンの陰に隠れ、この間にマンクがあげた勝ち星は1978年ユーゴスラビアGP250ccクラスでの1勝のみでした。

1981年、カワサキKR250の車上でスタートを待つA.マンク。

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しかし、1980年は250ccクラスで4勝、2位4回、3位2回と、全レースで表彰台登壇というパフォーマンスを披露して見事自身初のタイトルを獲得! 翌1981年は250/350ccクラスでダブルタイトルを達成! そして1982年は250ccクラスでわずか1点という僅差で防衛に失敗しましたが、350ccクラスではタイトル防衛に成功しています。

1983年にマンクは、スズキからのオファーで最高峰500ccクラスへの参戦を決意しますが、なんとシーズンオフでのスキーの怪我で8月半ばまでバイクに乗れない状態となってしまいました・・・。この不運もあり、翌1984年からマンクは慣れ親しんだ250ccクラスへ戻り、ヤマハのプライベーターとして参戦。勝利はフランスGPの1勝にとどまり、年間ランキング5位というリザルトを残しました。

38歳でチャンピオンに返り咲く!

1985年からマンクはホンダライダーとなりますが、この年はフレディ・スペンサーとRS250RWのコンビが圧倒的な強さを誇ったシーズンでした。スペンサーが4位だった第10戦でマンクはホンダライダーとして初めての250ccクラス優勝を果たしますが、これはもうスペンサーはタイトル獲得に優勝は必要ない状態での、消化試合的なレースでの勝ち星と言えるでしょう。

ホンダに乗っての初めてのシーズンとなった1985年、マンクはRS250RWに乗って英国GP、スウェーデンGPに優勝しました。

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1986年、この年はホンダのNSR250に乗るライダーたち vs. カルロス・ラバートのヤマハYZR250の戦い・・・という様相を呈したシーズンになりましたが、マンクはシーズン1勝・ランキング4位という結果に終わります。そしてこの年を限りに、SMZ時代から長年のマンクの友であり、チーフメカニックでもあるシュレーゲルがマンクの元を去ることになりました・・・。

1987年、ホンダNSR250に乗ったマンクは、計8勝を記録して自身のキャリア最後となるタイトルを獲得しています。

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1987年シーズン、すっかり大ベテランとなったマンクは、第3戦のドイツGPでの勝利を契機に破竹の勢いを見せました。全15戦の半分以上の8勝をシーズンで記録し、1981年以来となる250ccクラスのタイトルを獲得します。なおこのとき、マンクはすでに38歳となっていました・・・。

1988年の開幕戦だった日本GPでマンクは優勝しますが、第10戦ユーゴスラビアGPでのクラッシュで大怪我を負い残りのレースを欠場することになりました。そしてこの年限りでマンクはGPからの引退をすることを決意しました。

250/350ccクラスのスペシャリストとして長年活躍し、GP通算42勝という偉大な記録を打ち立てたマンクは、2001年にMotoGP殿堂入りを果たしています。なお、通算勝利数の内の12勝を、ホンダのRS250RW/NSR250でマンクは稼いだ計算になります。