戦後、世界ロードレースGP(現MotoGP)が成立した1949年から10年を経て、1959年からホンダは日本のメーカーとしては初めてGPへ挑戦しました。この連載は、ホンダのマシンに乗って世界タイトル(個人)を獲得した英雄たちを紹介するものです。第1回はホンダにGP初勝利をもたらした豪州のヒーロー、T.フィリスです!

ホンダのGP初勝利をスペインGPで記録!

オーストラリア生まれのフィリスは、同郷のボブ・ブラウン、ジャック・フィンドレーとともに、"カンガルー"を描いたヘルメットを被るライダーとして、1950年代末のGP界で知られていた存在でした。

ブラウンは1960年マン島TT250ccクラスでホンダのRC4気筒に乗り、初めてホンダ車でGPのポイントを獲得した外国人ライダー(4位)となりましたが、この年のTTで初めてホンダRC2気筒に乗り125ccクラスに参加したフィリスは10位だったので、ポイント獲得・・・とはなりませんでした(当時は6位までにポイントが与えられるシステムでした)。

1960年、250ccクラスの第5戦となるアルスターGPで、フィリスはホンダRC4気筒とともに2位表彰台を獲得! 当時のGPで最も強かったカルロ・ウビアリ(MVアグスタ)を相手に得た、僅差の2位表彰台でした・・・。

そして1961年4月23日、スペインでのシーズン開幕戦でフィリスは前年型のRC143(2気筒)を駆り優勝! これは自身にとっても、そしてホンダにとっても初となるGP初勝利でした。その後フィリスは全11戦の125ccクラスでシーズン4勝を記録し、見事世界チャンピオンに輝いたのです!

空冷4ストローク並列2気筒DOHC4バルブ125ccのホンダRC143で、スペインGP125ccクラスに優勝したT.フィリス。

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1962年、28歳の若さでこの世を去りました・・・

1934年の春にシドニーで生まれたフィリスは、17歳で初めてバイク(サンビームB25)を入手。その後ベロセットMACに乗り換え、スクランブルやトライアルなどの競技を楽しむ喜びを覚えるようになりました。

1954年に結婚をしたフィリスは、1955年にBSAゴールドスター、そして1957年に2年落ちのノートンマンクスを購入し、プライベーターとして豪州で活動。1958年には世界へ羽ばたくことを決意し、妻ベティとともに欧州へ渡ります。持てるすべてを処分して購入した350/500ccのノートンマンクスに乗ったフィリスは、英国内や欧州でのレースですぐに頭角をあらわし、トップ・プライベーターのひとりと目されるようになりました。

豪州でクラブマンレーサーとして活躍していたころのT.フィリスと、当時の愛機だったBSAゴールドスター。

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1960年からホンダとの関わりを持つことになるフィリスは、1961年に125ccでの4勝のほか250ccクラスでの2勝をホンダにプレゼントしています。そして余談ですが1961年TT500ccクラスに、フィリスはダグ・ヘールが開発したノートン"ドミレーサー"に乗って参戦。プッシュロッドマシン(OHVエンジン搭載車)初のマン島TTコース平均100mph(約160km/h)オーバーのタイムを叩き出し、TTの歴史にその名を残すことになりました。

1961年マン島TT500ccクラス、市販車のエンジン(OHV2気筒)を搭載するノートン "ドミレーサー"で、3位表彰台を獲得したT.フィリス。

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上記の戦績が示すとおり、優れたライダーとして活躍したフィリスですが、1962年のTTでフィリスは命を落とすことになりました・・・。同年のTTでは、ホンダは初めて350ccクラスに挑戦するためにフルスケールに満たない285ccのRC170(4気筒)を用意していました。

タイム的には250ccクラス用のRC162でも、350ccクラスで当時最強のMVアグスタに対抗可能なポテンシャルを発揮していたのだから、350ccフルスケールでなくても十分対抗可能・・・という計算の下生み出されたRC170に乗ったフィリスでしたが、3位走行中の3周目でクラッシュを喫し、残念ながら28歳の短い生涯を閉じることになりました・・・。

今年(2018年)の4月、MotoGP第2戦アルゼンチンでカル・クラッチローが優勝したことにより、ホンダはGP通算750勝の大記録を達成しました。初勝利を含むそのうちの6勝を記録したフィリスの偉業は、GPを愛する人がいる限り、永遠に忘れられることはないでしょう・・・。