ホンダにまつわる豆知識を紹介する連載第15回目。今回は2020年東京パラリンピック開催にちなみ? 「ホンダ太陽」と「ホンダR&D太陽」という大分県にある会社をご紹介します。最近の中央省庁による障がい者雇用の水増し・改ざんという残念なニュースにウンザリしている方は、この記事を読めば「やっぱりホンダはエライ!」という気持ちになって、溜飲が下がると思いますよ!?

偉人、中村博士のこと・・・

「ホンダ太陽」という会社の存在は2輪業界関係者よりも、福祉関係機関やパラリンピックなどに代表される障がい者スポーツの世界に携わる人に知られているでしょう。

ホンダ太陽は、本田技研が1981年9月に設立した"特例子会社"の社名です。"特例子会社"とは、「障がい者の雇用の促進等に関する法律」に基づいて設立される会社であり、その目的は障がい者の雇用の拡大にあります。

法制度の下、事業主は雇用する労働者数に対し、一定の割合で障がい者を雇用することが義務づけられています。そしてそれを遵守することが難しい場合は、一定の基準を満たした子会社で雇用する労働者を、親会社が雇用した者と見なしています。

ホンダ太陽別府工場(本社)の外観。

そもそも「太陽」の名は、ホンダ太陽設立の地、大分・別府市亀川にある「太陽の家」に由来しています。別府市は古くから温泉保養地として発展し、温泉をはじめ豊かな自然環境を利用したリハビリテーション施設を擁する町です。この町が障がい者自立促進の一大拠点になった背景には、別府出身のひとりの偉大な人物の存在がありました。

その人物・・・中村裕(ゆたか)博士は1927(昭2)年生まれで、1952(昭27)年に九州大学医学部整形外科医局に入りました。そこで中村博士は天児民和(あまこ たみかず)教授に師事。天児教授よりリビリテーションの研究を勧められ、1960(昭35)年には欧米のリハビリテーションの現状を視察することになりました。

故・中村裕博士(1927〜1984年)

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その視察の一環で訪れた英国立脊髄損傷センター(ストーク・マンデビル病院)にて、当時33歳だった中村博士の人生を決定する出会いがありました・・・。研修を担当した同院院長、ルートヴィヒ・グッドマン博士の治療法は、日本の障がい者に関する医療や福祉の現状の貧弱さを、中村博士に強く認識させるものでした。

当時の英国ではすでに、患者が社会復帰するまでを医療の役割とすることが当たり前のこととして定着していました。日本では、障がいを持つ患者は退院後に自宅に篭りがち・・・が常態化していましたが、英国ではなんと半年で8割以上の障がいを持つ患者が社会復帰していたのです。

帰国後の中村博士は、脊髄損傷者の治療近代化を推進すると同時に、車椅子スポーツを障がい者のリハビリテーションと社会参加手段として押し進めました。当時の日本では重い木製の車椅子が中心でしたが、欧米では軽く設計された車椅子を用いて、障がい者がスポーツ競技に参加する環境が整備されていました。

英国での中村博士の師であるグッドマン博士はこの分野のパイオニアであり、1948年にストークマンデビルゲーム(両下肢麻痺者の競技会)を開催することを皮切りに、障がい者スポーツを発展させた人物でもありました。中村博士の車椅子スポーツへの取り組みは、グッドマン博士の教えの流れを汲むものだったのです。

東京パラリンピックの成功、そして「太陽の家」創設へ・・・

ただ、当時の国内では中村博士が推進した車椅子スポーツに対し、医者が障がい者をさらし者にするとは・・・という否定的な反応も残念ながら少なくありませんでした・・・。しかし、その後の今日までに至る障がい者スポーツの日本での発展を考えれば、いかに中村博士の試みに先見の明があったかは説明するまでもないでしょう。

また中村博士は、今日一般化している"パラリンピック"の名称が初めて使われた、第2回国際身体障がい者スポーツ大会(1964年東京パラリンピック)の誘致にも尽力しました。そして実現した東京パラリンピックから、1980年までの夏季パラリンピックの団長を中村博士は務めています。

1964年東京パラリンピックのポスター。

theolympians.co

1964年東京パラリンピックの開会式。入場するオーストラリア代表チーム。

ja.wikipedia.org

東京パラリンピックを成功させた中村博士が次に取り組んだのは、1965年に設立した「太陽の家」の発展でした。「太陽の家」は日本では初めての、障がい者が働きながら過ごせる施設でした。

世に心身障がい者はあっても、仕事の障害はあり得ない。残存機能を活用して生産活動に参加し、社会人として健常者と一緒に生きることこそ真の幸せである──太陽の家の社員は庇護者ではなく労働者であり、後援者は投資者である、という中村博士の啓蒙は、従来の国内の福祉にはなかった観点でした。

オムロン、ソニーに次いで、本田宗一郎の意志によりホンダ太陽が設立・・・

ホンダ太陽は、オムロン、ソニーに次いで大分の太陽の家に設立された3番目の企業でした。その設立のきっかけとなったホンダ創業者である本田宗一郎の訪問(1978年1月)は、本田宗一郎と親交の深かったソニー創業者、井深大の紹介によるものでした。

中村博士の案内で太陽の家の作業所を見学した本田宗一郎は、「どうしてだ? 涙のやつが出てきてしょうがないよ」。そして「よし、やろう。ホンダもこういう仕事をしなきゃだめなんだ」と言い出したそうです・・・。

中村博士の理想に強く共感した本田宗一郎は、世界同時不況、欧米との貿易摩擦加熱化、国内需要の伸び悩み・・・という最悪の経営環境下にも関わらず、訪問よりわずか半年後の1978年7月には太陽の家の授産(障がい者が社会復帰するために受ける職業訓練)科目として精機科を発足させ、その操業を開始しています。

その最初の仕事は、日本精機より受注した2輪車用速度/回転計の組立でしたが、翌1979年にはスタンレー電気、1980年には東洋電装から2輪用電装部品生産を受注することになりました。

ホンダ太陽とホンダR&D太陽の沿革を示した図表。

そして1981年9月にはさらにミツバとホンダ・ロックの出資を受け、「ホンダ太陽」が太陽の家発祥の地、別府亀川に設立されることになりました。亀川は現在も太陽の家を中心に多くの障がい者の方々が暮らし、働いている町です。

当時、太陽の家別館作業棟に作られた近代的工場の1階にはホンダ太陽、2階にはソニー太陽、そして3階にはオムロン太陽電気が入っていました。なおホンダ太陽が、本田技研工業の特例子会社として認定を受けたのは、1982年5月のことでした。

ホンダという大企業の支援を受けるとはいえ、ホンダ太陽の歩んだ道程は決して平坦なものではありませんでした。オムロン、ソニーに次いで法人化されホンダ太陽ですが、創業当時すでに比較的障がいが軽度な人はオムロン、ソニーに就職しており、自然とホンダ太陽の従業員は重度の障がい者の割合が高かったのです。

また、従来の授産科目は木工関係が圧倒的に多く、2輪車部品生産は未知のノウハウを必要としました・・・。ホンダ太陽設立からの10年は、経営、人間関係の構築、そしてホンダ内でも特別視されるという疎外感・・・という諸問題の数々との格闘を強いられた時代でもありました。

2輪車・4輪車の電装パーツや計器などの製造は、ホンダ太陽の主な業務のひとつです。貴方の愛車にも、ホンダ太陽で作られたパーツが組み込まれているかも?

自動車メーカー系特例子会社の先駆

1992年7月にはホンダ太陽に次いで、本田技術研究所の特例子会社としてホンダR&D太陽が設立されています。 2017(平成29年)6月1日のデータで、日本国内には464社の特例子会社がありますが、21世紀初頭の数字・・・84社しか特例子会社がなかった時代には、研究・開発を業務内容とする例は、ホンダR&D太陽のほかには存在しませんでした。そのため1990年代初頭のホンダR&D太陽の設立は、障がい者の職域・職種を拡大する取り組みとして当時注目を集めました。

なお設立当初ホンダR&D太陽は、CAD(コンピューター設計・製図)とキーロックの組立を行っていましたが、1995年5月に別府に隣接する日出(ひじ)町にて、ホンダ太陽とホンダR&D太陽の新工場である日出工場が完成したことを契機に、ホンダR&D太陽はCAD業務に専念することになりました。

ホンダR&D太陽のCAD室での、グループミーティングの様子をおさめた写真。

当然のことではありますが、どんな障がい者でもホンダ太陽およびホンダR&D太陽に入社できるわけではありません。採用にあたり適正を問われるのは、世の中の多くの企業と一緒です。また製品に求められる品質管理についても他のホンダグループ企業と同条件で、ホンダ太陽は福祉工場として特別扱いを受けることはありません。

ホンダ太陽およびホンダR&D太陽の各従業員の地道な努力の結果、ホンダ太陽は大分県下最大規模の製造業者として成長しました。また21世紀になってから自動車メーカー系の特例子会社は急増し、現在では10社以上を数えるまでに増えましたが、21世紀初頭まではホンダ太陽とホンダR&D太陽のわずか2社しか存在しませんでした。この分野の先駆としての実績は、ホンダの誇るべきことのひとつでしょう。

2020年東京パラリンピックを目指す、アスリートたちに注目しましょう!

ホンダ太陽およびホンダR&D太陽については、障がい者スポーツに対する取り組みも有名です。車椅子陸上競技の国際大会上位入賞選手や、水泳で主要国際大会に出場した選手など、世界を舞台に活躍する選手が所属する「アスリートクラブ」には、2020年東京パラリンピック代表を目指すアスリートもいます。

ホンダアスリートクラブ最年少(1987年生まれ)で、競技用車椅子「レーサー」を使った陸上短距離走のアスリートである佐矢野利明選手(ホンダR&D太陽 事業部 設計・開発課)。東京パラリンピック出場を目指し、トレーニングに励んでいる。

www.honda.co.jp

東京パラリンピック本番の2020年までの期間も、ぜひホンダ太陽およびホンダR&D太陽のアスリートたちのスポーツ活動に注目してみてください!