(C)Copyright MOBILITYLAND CORP. All Rights Reserved.
「RICHARD MILLE SUZUKA Sound of ENGINE 2017」に参加予定の車両を紹介する当連載!
今回は『マスターズ・ヒストリック・フォーミュラ1』のデモンストレーションに参加予定の、日本初のF1プライベーター作のマシンを紹介します。

日本初のF1プライベーターチーム

Privateer=プライベーター・・・・アメリカ英語の発音ですと、プリヴァティア・・・みたいな響きですが、それはさておき、モータースポーツにおけるプライベーターは大企業メーカーなどの支援を受けている or 受けていないに関わらず、独立したチームのことをプライベーターと読んでいます。

日本の大企業がF1に参戦したハナシとなると、ホンダとトヨタのことが真っ先に頭に浮かぶと思いますが、多くのプライベーターが活躍した1970年代の「DFV時代」には、日本からもプライベーターとしてF1にチャレンジする試みが行われています。その先鞭は1974年からF1に参戦したマキ・エンジニアリングでした・・・。

ハウデン・ガンレイが1974年にドライブしたF101は、イギリスGPと西ドイツGPに参戦したものの予選落ちを喫しました。この写真は2014年の富士スピードウェイのAUTOCAR JAPAN FESTIVALを走った際のものです。

en.wikipedia.org

マスターズ・ヒストリック・フォーミュラ1に出場するMaki F101C (C)Copyright MOBILITYLAND CORP. All Rights Reserved.

 マキF101Cは、日本初のプライベートF1チームとして1974年から挑戦を開始したマキ・エンジニアリングが1975年シーズン用に用意したマシン。前年のドイツGPで大クラッシュを起こしたため、モノコックこそスペアのシャシーナンバー002を使用しているが、その内容は74年のF101Bとほぼ同じ。資金難からヨーロッパ・ラウンドのみのエントリーとなり、イギリスGPとオランダGPで鮒子田寛、ドイツGPとオーストリアGPでトニー・トリマーがドライブするも全て予選落ち。8月にディジョンで行われた非選手権スイスGPで唯一トリマーが13位完走を果たしている。このF101Cはマキ撤退後イギリスに残されていた1台で、何人かのオーナーの手を経て現在に至る。

1975年、シチズン時計をスポンサーにしたマキは、鮒子田寛とトニー・トリマーをドライバーに起用しますが、全戦予選落ちの憂き目にあっています。1976年は富士スピードウェイの「F1世界選手権イン・ジャパン」に焦点を絞り新設計のF102Aをトリマーがドライブしましたが、予選落ちという結果に終わっています。

日本の自動車文化を、後世に伝えたい・・・です

余談ですが、1976年の「F1世界選手権イン・ジャパン」には、もうひとつの日本のプライベーターとしてコジマKE007もエントリーしていますが、こちらも当時主流のDFV+ヒューランド製ギアボックスを使用したマシンでした。

周知のとおり、ターボV6エンジンに回生エネルギーを使う今日のF1では、高度なテクノロジーが必要になったため独自の資本で運営するプライベーターが、より生きにくい時代になっております。今では日本のプライベーターがF1にチャレンジすることは、1970年代よりもはるかに難しいことになっているのが現実です。

ただ1970年代当時は、今よりもはるかに世界を舞台に日本が戦うことが難しかった時代でもあります(円の通貨価値の低さや、文化的グローバリゼーションが未発達だったゆえに)。そんな時代に欧州のカルチャーであるF1にチャレンジしたマキ・エンジニアリングの試みは、再評価されるべきなのかもしれません。

日本は自動車産業で戦後の立国を担った背景がある割には、自動車文化に対するリスペクトが公教育ではおろそかになっている観があるのが残念ですね・・・。これからを担う若い人たちが、日本独自の自動車文化があったからこそ、今の繁栄があることを理解してくれることを期待したいですね・・・。