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今年40回大会が開催される"コカ·コーラ"鈴鹿8耐。今まで数々の夏のドラマが、鈴鹿サーキットを舞台に展開されましたが、今回はロレンス編集部の独断と偏見(?)で、過去の大会の中から名勝負を5つ、順不同で選んでみました!

1978年・・・ヨシムラ、初の鈴鹿8耐でホンダワークス相手に勝利!

当時まだ開場して数年の鈴鹿サーキットを舞台に、日本で最初の本格的2輪耐久レースである「鈴鹿18時間耐久ロードレース」が開催されたのは1964年のことでした。これにホンダCB77改で参加したヨシムラは、本家のホンダの研究所チームを破って優勝。その名を全国に知られることになりました。

そして1978年、再びヨシムラはホンダファクトリーのRCBを打ち負かす劇的なレースを鈴鹿8耐で展開しました。1977年にアメリカ工場の火災で大打撃を受けたヨシムラですが、発売間もないスズキGS1000をベースにしたマシンで1978年春のデイトナで勝利。1978年鈴鹿8耐の勝利は、そのノウハウを盛り込んだ耐久マシンで達成されたものです。

鈴鹿8耐といえばヨシムラ・・・と多くの人がイメージするほど、ヨシムラの鈴鹿8耐における存在感は強烈です。40周年記念大会で新型スズキGSX-R1000を投入するヨシムラの、戦いぶりに乞うご期待です!

同年3月のデイトナ・スーパーバイクでスティーブ・マクラフリンが勝利したヨシムラ・スズキGS1000がヨシムラ8耐用マシンの雛形ですが、8耐用マシンはPOPこと吉村秀雄のサジェスチョンを受けて、ヨシムラパーツショップ加藤でチューニングされたものでした。©オートバイ/モーターマガジン社

当時22歳のウェス・クーリー(左)と23歳のマイク・ボールドウィンという若きアメリカンライダーたちが、ヨシムラの初の鈴鹿8耐勝利に貢献しました。多くの才能あるライダーを発掘したのも、ヨシムラのレース業界への多大な貢献のひとつです。 ©オートバイ/モーターマガジン社

1985年・・・"8耐ブーム"を加速させた、劇的な幕切れ

この年から鈴鹿8耐へのワークス参戦を開始したヤマハは、全日本のエースライダーである平忠彦と、世界ロードレースGP最高峰を3連覇したアメリカン・レジェンド、ケニー・ロバーツのコンビをFZR750のライダーに起用しました。

予選では速さをみせ見事ポールポジション獲得。スタートに失敗し、決勝は最後尾からの追い上げになりましたが38周目にはトップを奪取。残り30分までその位置をキープし、誰もがヤマハワークスの初出場・初優勝を信じて疑いませんでした。

しかし、チェッカーまで残り30分を切ったところで、平の乗るFZR750のエンジンがブロー・・・。白煙を吐きながら惰性で最終コーナーを下り、グランドスタンド前でリタイアになってしまう結末は、あまりにドラマチックなものでした・・・。勝利したのは、必死にケニー/平組を追走したワイン・ガードナー/徳野政樹組のホンダRVF750。諦めずに最後まで激走したガードナーの頑張りも、このドラマのスパイスになった観があります。

この年から始まった平忠彦の鈴鹿8耐の挑戦は苦難続きでしたが、1990年にエディ・ローソンと組んで優勝することでハッピーエンディングを迎えたような印象があります。1980年代の鈴鹿8耐人気を絶対のものにするのに、氏が果たした貢献は大きいです。

ヤマハFZR750を走らせる平忠彦。当時、タバコスポンサーが一般的な中、資生堂の男性化粧品、「TECH21」のメインスポンサーがついたことも、多くの人々を驚かせました。 ©オートバイ/モーターマガジン社

1994年・・・0.288秒という僅差の大激戦!

これまでのTT-F1ルールから、スタンダード車のフレームを使うスーパーバイク・ルールで鈴鹿8耐で行われることになった最初の年の大会は、予選上位者がタイムアタックをしてスターティンググリッドを決める、スペシャルステージが初開催された大会でもありました。

記念すべき初のスペシャルステージを制したのは、カワサキZXR750Rに乗るスコット・ラッセル/テリー・ライマー組。初物尽くし・・・という感じですが、決勝スタートから約30分後に200Rで多重クラッシュが発生して赤旗中断となったため、鈴鹿8耐としては初めて2ヒート制で決着がつけられることになったのです。

再開後のレースではラッセル/ライマー組と、ホンダRVF/RC45に乗るダグ・ポーレン/アーロン・スライト組が終始熾烈なトップ争いを展開。勝利の女神が微笑んだのはポーレン/スライト組の方でしたが、その差はなんと0.288秒! まさに歴史に残る、僅差での決着でした・・・。

チームHRCのホンダRVF/RC45(右)と、伊藤ハム レーシング カワサキのZXR750Rの激しいバトルは、3時間近くも続きました。観客がずっと固唾を呑んで見つめたこの戦いは、まさに"耐久スプリント"と呼べるものでした。 ©オートバイ/モーターマガジン社

2008年・・・ベテランの状況判断が光った勝利

この年、ホンダはフルモデルチェンジしたCBR1000RRを投入。この年、ホンダのエースナンバーである「11」をつけたのはBSB(英国スーパーバイク選手権)で活躍していた清成龍一と、この年よりMotoGPからSBK(世界スーパーバイク選手権)に転向したカルロス・チェカでした。

スタートを務めた清成は、首位でチェカに最初のライダー交代。しかし、ここで大きなドラマが待ってました。残り5時間で突然雷鳴とともに大粒の雨が・・・。ここでレインタイヤに交代するかどうか・・・チェカはドライ用スリックタイヤのまま走り続けることを選択しました。

(2回目の走行時に)雨が降ってきた瞬間、信じられないと思った。けれど、空は青空。路面は乾いている部分もあって、慎重に走れば、そのままコースにとどまるほうがピットインするよりもロスが少ない。そう思ってそのまま走った。今思えば、レースの最も重要なポイントで、正しいジャッジができたのではないかと思う。

その後天気はまた急転。一転して、今度は太陽が顔を出して日差しが強くなりました。東コースでは水しぶきが上がるほどの完全ウエットながら、西コースはドライという難しいコンディションのなか、同じくスリックタイヤで猛然と追い上げる2位の加賀山就臣(スズキ)は、50秒ほどあったチェカとの差を詰めて91周目にトップに浮上しました。しかし好事魔多し。94周目に加賀山は1コーナーで転倒! 慎重な走りを心がけたチェカが再び首位に戻りました。

その後、チェカに対してピットレーンのスピード違反でストップ&ゴーのペナルティが発令されたりもしましたが、清成/チェカ組は安定した速いペースで首位をキープして見事優勝! 歴戦の勇士らしい的確な状況判断がもたらした勝利・・・と言えるでしょう。

ホンダCBR1000RRに乗るカルロス・チェカ。2008年からSBKへ参戦したチェカは、2010年からドゥカティワークスに移籍し2011年度のSBK王者に輝いています。

www.suzukacircuit.jp

2015年・・・完璧なる圧勝ぶり!

この年、久々にワークス体制で参戦することになったヤマハは、全日本JSB1000王者の中須賀克行そして、ポル・エスパルガロとブラッドリー・スミスという現役MotoGPライダーを擁する強力な布陣に、新型ヤマハYZF-R1を託しました。

予選のTOP10トライアルでは、P.エスパルガロが2分06秒000という驚異のタイムを記録。その仕上がり具合に、多くのライバルチームは戦慄しました・・・。

2015“コカ・コーラ ゼロ”鈴鹿8耐 ポル・エスパルガロ驚愕のTOP10トライアル!!

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決勝ではスタートに失敗し20位前後まで順位を落としますが、中須賀は14周目には3番手に浮上。そして2位の高橋巧(ホンダ)のスリップを使い、燃費を稼ぐ走法を披露。予定より2周多い28周で、最初のスティントを消化することに成功します。

その後レースは6回もセーフティーカーが入る荒れた展開になりましたが、ヤマハライダーの3名はそれぞれが持てる力で役目を果たし、完勝というかたちで見事ワークス復帰初戦の鈴鹿8耐を優勝しました。セーフティーカーの後ろの隊列走行のとき、B.スミスはフェアリングのスクリーンに体をおさめるように伏せて走行してましたが、それは少しでも燃費を稼ぐという最大限の工夫でした。

1996年の芳賀紀行/コーリン・エドワーズ組以来となる鈴鹿8耐の勝利をヤマハにもたらした、YZF-R1。翌2016年もヤマハワークスは勝利し、今年は3連覇をかけて鈴鹿8耐に挑むことになります。

race.yamaha-motor.co.jp

貴方の最高の名勝負は? そして新しい伝説を見るために鈴鹿8耐へ行こう!

いかがでしたでしょうか? あの年の鈴鹿8耐が入っていない! とお怒りの方もいらっしゃるかもしれませんが、5つに絞るとなると・・・なかなか選定が難しいです。アレも入れたかった・・・という大会はほかあるのですが・・・ごめんなさい! それくらい選定に悩むほど、鈴鹿8耐は名勝負が生まれることが多いロードレース、と言えるのかもしれませんね。

今年の40周年記念大会となる”コカ·コーラ"鈴鹿8耐も、TOP5に食い込むような名勝負になることを期待しましょう!