GT-Rを復活させるなら、圧倒的速さでレースを制することが条件だ。その難しさを一番知っているのは日産であろう。慎重にも慎重を期して89年に登場した3代目GT-R、R32スカイラインは、世界規模で行われていたグループA規定でのツーリングカーレース国内デビューウインを合い言葉に開発された。そんなGT-R復活までの戦いの記録を振り返っていこうと思います。

F1ドライバーS.ヨハンソンも参戦
(名車の記憶 日産スカイラインGT-R I 【BNR32編】©モーターマガジン社)

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GT-R参戦2年目のシーズンが始まった。そしてGT-Rの台数は4台へと増えた。ラインアップを簡単に表現するなら、装着されるタイヤ銘柄の違いで見分けることができる。前年の初年度にデビューした2台は、ブリヂストンとダンロップをそれぞれ装着。そしてブリヂストンを付けたカルソニックスカイラインがチャンピオンを獲得した。ブリヂストンはGT-Rのレース車両開発時点から採用され、600psを超えるエンジンパワーを4輪駆動でどのようにして速さに活かせばいいか、というノウハウを、先行して積み上げることができていた。90年のシーズン途中からTOYOもGT-Rで参戦を始めている。さらに91年になってヨコハマが加わり、都合4台のGT-Rが決勝レースに駒を揃えることになった。ところが、開幕戦からGT-Rにとって過酷なレース展開が繰り広げられることになる。デビューの年である昨年は全くその兆候を見せることのなかったブレーキトラブルが、次々に発生。4台のGT-Rのうち2台はそれが原因でリタイアし、1~2フィニッシュを果たした残りの2台もブレーキトラブルを抱えながらのゴールとなったのである。ドライバー達は、エンジンブレーキを頼りに、かろうじて走り続けていたのであった。GT-Rが、そうした無理な走りに耐えうるエンジンの耐久性を備えていたのは救いだった。

(名車の記憶 日産スカイラインGT-R I 【BNR32編】©モーターマガジン社)

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自動車メーカーが公認を取得した部品の供給を受けるグループAでは、マシン性能にほとんど差がありません。よって、変わるのは選んだタイヤの性能とドライバーの腕のみ。想像を超える負担がブレーキを消耗させ、ドライバー同士の闘争心がギリギリの攻防戦を繰り広げ、マシン同士の接触を起こすこともある。そんな限界ぎりぎりバトルの中で。4台のGT-Rで始まったこの年の戦いは、最終戦インターTECで6台にまで増え、誰もがGT-Rから目を離せなくなっていったのです。