2016年、ラリードライバーがひとり、KTMでバイクに復帰した。
彼の名は三橋淳。 (GOGGLE@モーターマガジン社)
出場11回で5度のクラス優勝を誇る、日本屈指のラリードライバー ̶̶それが2015年までの三橋のプロフィールだった。
けれど彼は、16年大会でバイクに帰って来た。実に13年ぶり、ライダーとしてダカールラリーに帰って来た。
「ニ輪から四輪に転向する事はよくあることなんです。僕だってそうだったし。でも今回は逆、四輪からニ輪へ、しかもカムバック。レアケースだと思いますよ、現地でも『クレイジーだ』って言われましたもん」
15年のダカールラリー、三橋は自身5度目のクラス優勝を飾っていた。しかし、レース終盤に不可解なチームオーダーがあり、当然のように三橋は反発。その代償として、その後のシートを失ってしまった。「要はクビです。戦略がどうであれ、チームオーダーに背いたから。でも僕は間違ってない。意見を通してクビになるならしょうがない」16年大会は、エントリーも危ぶまれていた。海外のチームからオファーは届いたが、そのどれもが持参金が前提。これくらい(資金を)持ち込めばシートを用意する、というもので、三橋はどうにもアクションを起こす気が起きなかったのだ。「そんな時、意外なところから話をもらったんです。ニ輪、しかもKTM、しかもKTMジャパンでした」KTMといえば、パリダカール時代から15年連続優勝をマークしている強豪中の強豪。けれど、オファーの主は日本法人から。
三橋に、決断の時は迫っていた。
クラス優勝という結果を残していても、次のシートが用意される訳では無い。実力だけでなく、運とタイミングなど、全てを同時に掴めるもののみが出場権を獲得する事ができるという厳しい世界。
残念な事に、四輪の世界では、今年はそのどれかが足りなかった三橋選手に用意された、2輪復帰という道。しかも、オファーの主は、ダカールラリー15連覇という強豪のKTM。
11回、このラリーにドライバーとして出場し続けているとはいえ、2輪と4輪ではやはり過酷さが違う。13年ぶりの二輪復帰という事は、13歳年齢も重ねているという事。体力的にも、条件的にもかなりの決断になる今回の挑戦。それでも、三橋選手は参戦を決意した。
総合56位完走(64時間57分29秒)南米ダカールラリー日本人初の2輪部門で完走達成
「KTMからのお話は、僕とダカールに行きたい、という情熱を強く感じたんです。いろいろなしがらみがある四輪で出るより、僕とやりたい、と言ってくれる人がいるなら、そこに決めよう、と思いました。僕にとってラリーって、何に乗るかじゃない、誰とやるか、なんです」それでも三橋は、13年ぶりのバイクでの出場に、KTMに条件を出した。三橋も、もう45歳。13年前のように順位を狙うレースはできませんよ、というものだった。オファーを出したKTMジャパン、野口英康代表の解答も明快だった。「日本人ライダーを乗せて、日本でダカールラリーを、KTMをアピールしたい気持ちはありましたけど、それは順位じゃなくてもいいかな、って思ってました。三橋君がバイクでダカールに復活する、それもKTMで、っていうだけでいいな、と思うようになったんです」(野口社長)KTMの強さをアピールしたいなら、本国チームの強さをこと細かくPRすればいいのだけれど、野口社長はそれを選ばなかった。三橋と走りたい、という情熱を優先したのだ。
合計15日間、総走行距離9500kmという世界一過酷なレース、ダカールラリー。13年前に4輪でのラリーに転向したにも関わらず、2輪の世界に三橋選手を呼び戻したKTMジャパンの情熱と、マシンのポテンシャル。そして、何といっても、「完走する」という三橋選手の強い信念と根性がなければ成し遂げられなかった今回の挑戦。
三橋選手自身、自分が13年越しにバイクでのダカールラリーに戻って来るとは思ってもみなかったという。「まだまだラリーの神様が『おまえ まだ走れ』って言ってくれたのかな。 オレのラリー人生、まだまだ捨てた もんじゃないな、って思います」 人生って何が起こるか分からない!挑戦する気持ちを持ち続ける事が大切だと改めて感じさせてくれた、三橋選手とKTMの物語に勇気をもらった人もたくさん居るのではないでしょうか。