●あべのりふみ 1975年9月7日 東京都出身
オートレーサーである光雄氏を父に持ち、5歳からバイクに乗り始める。ポケバイ、ミニバイクとステップアップし、15歳でダートトラック修行のために半年間渡米。帰国後にロードレースに本格デビューすると、2年後の93年には、当時の全日本選手権最高クラスであるGP500クラスの市場最年少チャンピオンに輝く。94年より世界グランプリGP500クラスに参戦し、05年に世界スーパーバイク選手権へ。07年から全日本に活動の舞台を移し、最終戦を前にランキング3位という位置にいながら不慮の事故で逝去、享年32歳だった。

写真:赤松孝 / ヤマハ発動機 / モーターマガジン社 掲載元テキスト:中村浩史

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記録ではなく記憶に残る天才ライダー

ランキングという「記録」で言えば、(世界GPへの)フル参戦をスタートした95年から9位/5位/7位/6位・・・と、決して一流ライダーのそれではないかもしれない。

念願の世界GPへのフル参戦を開始したあとのノリックは、順風満帆というわけではなかった。
勝てない日々が続き、ストレスとフラストレーションと戦わねばならない時期は長かった。

ファクトリーからサテライトチームへ、レギュラーから開発ライダーへ、世界GPからワールドスーパーバイク、そして全日本と、ノリックは活躍の場を次々と変えていったが、どのステージでも一生懸命、勝つことで頭をいっぱいにしながら走り続けた。
日本に戻ってからは、ただ走るだけじゃなく、ロードレース界全体の人気向上や、ライダーの走る環境を整えること、そして安全性を確保したプロスポーツを目指して、また新しいステージに進んだようだった。なのにーー。

ノリックは2005年にワールドスーパーバイクへと活動の場を移したのち、2007年からは全日本選手権に参戦した。
同じヤマハ勢のライダーたちがサーキットでの事故や転倒で命を落としたことで、ライダーの安全性を訴えていたノリックだったが、その彼が一般道での事故で逝ってしまうとは誰にも想像がつかなかった・・・。

いまノリックがいないことを嘆いたとしても、あの太陽のような明るい笑顔が帰ってくることはない。ただ私たちが出来ることは、ノリックという底抜けに明るい、決して天才じゃない、と自分を評したライダーがいたということ、いつまでも覚えておいて、ずっとずっと、このライダーのことを伝え残していくことだ。

2000年。99年のブラジルGP優勝から、3レースだけ挟んで2000年の日本GPで優勝。照れ臭そうにガッツポーズを見せたノリック。

2005年からはワールドスーパーバイク(スーパーバイク世界選手権)へ活動の場を移す。成績は振るわなかったが人気は抜群だった。

2007年からは全日本選手権に参戦。
同じヤマハ勢のライダーたちがサーキットでの事故や転倒で命を落としたことで、ライダーの安全性を訴えていたノリック。その彼が一般道での事故で逝ってしまうとは誰にも想像がつかなかった・・・。