1960年代に活躍したレーシング・ドライバー浮谷東次郎をご存じだろうか?
裕福な家庭に生まれた彼は、勉強をしたければ誰でも入学できる大学を設立するという夢を持ち、その資金を稼ぐためにレーサーになったと言われている。類い稀なセンスと才能を持つ彼は、瞬く間に日本のトップレーサーに成長するも、1965年8月20日に わずか23歳の若さで悲運の死を遂げた。
東次郎のレーサーとしてのキャリアは2年ほどにすぎない。だから彼のレーサーとしての資質は完全に証明されたわけではなかった。しかし、少年時代から始まる彼のアグレッシブな生き方と実行力は、その死を乗り越え、多くのレースファンや後進に勇気を与え続けたのである。

チェ・ゲバラの『モーターサイクル・ダイアリー』にも似た、東次郎の青春記

レーサーとしての活動期間が短かった東次郎だが、彼を有名にしたのは、オートバイ乗りとしての若き日のストーリーだろう。
若干15歳のときに、ドイツ製50ccのオートバイ、クライドラー(当時は14歳から50ccバイクの運転許可証が取得可能だった)で市川市~大阪市(往復で1500キロ)を走破し、その模様の体験記『がむしゃら1500キロ』として出版されている。

その後、アメリカに留学し、大陸横断の旅に出たが、そのときの体験記も「俺様の宝石さ〜わがアメリカアメリカ横断紀行〜」としてまとめられている。

南米の革命家チェ・ゲバラが青春時代にオンボロオートバイで旅に出たときの経験が「モーターサイクル・ダイアリー」として本になっているが、それを彷彿させるような彼の体験記は、多くのオートバイ乗りに多大な影響を与えている。

©東本昌平先生・森田信吾先生・モーターマガジン社・筑摩書房。(写真・取材協力:浮谷朝江)

千葉県市川市の浮谷家に保存されている、15歳の時の東次郎の愛車。
1957年夏、彼はこのくらいドラーで東京ー大阪(往復1500キロ)の一人旅をしている。その模様は旅行記「がむしゃら1500キロ」という書籍として残されている。

1962年頃。アメリカ大陸横断を敢行した20歳の東次郎。愛車はCB77。
この頃から草レースで頭角を現し始めていた。

レーサーとしてトヨタと契約・・・そして別れ。

米国から帰国した1963年。トヨタを短期間の専属契約を結び、21歳でーレーサーになる。
その後、1964年 22歳で正式にトヨタと契約。

東次郎は、米国留学時にオートバイの草レースで名を挙げ、1963 年に帰国してからは、トヨタのテストドライバーとして契約、その後1964年に正式にレーシングドライバーとしての専属契約を果たす。

そして、徐々に頭角を現し始めた頃、鈴鹿サーキットでの練習走行中に、コースに侵入した人物を避けようとして事故を起こし、還らぬ人となる。プロレーサーとしてのキャリアはわずか2年足らず。

1965年7月18日、船橋サーキットで行われた全日本自動車クラブ選手権のGT-1クラスのレースで、当時のトップドライバーの一人生沢徹との劇的なトップ争いを制して優勝するなど、ファンの心に残る勝利はあるものの、真の天才レーサーとしての評価を固めるには、まだいくつかの勝利と時間が必要だったと言える。

しかし、それでもファンは夭逝した若き天才に夢を見る。いつかはF1に上り詰めたのではないかと。そして、彼の前向きで明るい若き日の記録を知るにあたり、積極的に人生を楽しむ勇気を与えられる。同時に、モーターサイクルへの情熱も再燃させられるのである。