純愛か狂気か

純愛という言葉には美しい響きがある。小説のコンセプトとしても純愛ものはひとつのジャンルと言ってもいいだろう。病気や身分の違い,戦争などで純愛が引き裂かれるストーリーは必ず涙を誘う。中でもプラトニックな恋愛は崇高なものとしてあがめられやすい。ある意味退廃主義の真逆の価値観かも知れない。

小説のコンセプトとしては素晴らしい純愛も現代の世界では狂気となりやすい。特にストーカー犯罪はあとを絶たないばかりか,殺人という凶悪化が進んでいる。

純愛が危険なのは一方的な愛情を肯定してしまうことだろう。「こんなにも相手を愛している自分」が自分自身のアイデンティになる。自分はこんなにも相手を好きなのに,指一本触れないで愛しているのに。そういう気持ち増幅していった時に相手の恋愛が裏切り行為として許せなくなっていくということは多い。ようするに純愛はエゴイズムなのだ。

自分の中の偶像を愛するということ

男性に多いのが自分の中にもう一人の彼女ができることだ。その彼女は実態と離れて成長していく。自分の中の偶像になっていくのだ。例えば初期の恋愛の段階で「この子はこういう女性に違いない」という像を生み出す。後はその偶像の方がどんどん成長し,本物の彼女が違う行動をすると「君はそういう女性では無い」と本物の方を認めたくないという行動にでる。男性の恋愛はとてもロマンチストであり,偶像化しゃすい。しかしそれもスタンドアローンなエゴイズムなのだ。男尊女卑型の社会であればそれでもよいかも知れないがもはや繋がってしまったネットワーク社会がそれを許すことは無い。

混沌と多様性の時代だからの退廃主義

純愛というスタンドアローンなエゴイズムは葬り去る時が来ている。LGBTを認めネットワーク型の多様な愛の形を許す必要がある時代だ。今必要な恋愛の形はコミュニケーションだ。相手の心と肉体を理解し,パートナーとして相手に自分が与えられるものをよく考えることだろう。それは癒しの時間かも知れないし,至福の食事かも知れないし,官能のエクスタシーなのかも知れない。まずコミュニケーションありきだ。一方的な妄想は偶像崇拝の危険性を伴う。最小限のコミュニケーションや最小限の関係性こそが崇高の恋愛という考え方は社会における雄と雌はとにかくてっとり早くマッチングしてしまう方がよいという生物の効率性からすると良いのかも知れないが,個人の幸福の最大化からすればよいことは何も無い。

男性も女性も混沌とした多様性の時代だからこそたくさんのコミュニケーションとたくさんの関係性を持つことが選択肢を増やすこと繋がることだけは間違い無い。その結果自分が恋愛においてどんな関係性を持つことにするか判断することがこれからの社会において重要な恋愛モデルだろう。

たくさんのコミュニケーションを「汚れる」と表現すること自体が男尊女卑型の社会の遺物であることに早く気づくべきであろう。二人だけの崇高の恋愛を選んだカップルは結果論としての選択となる。そのプロセスにおいてはポリアモリーな時期があっても良いのだ。なので純愛が残ったとしてもそれは結果論として残る時代になるのだ。