そのモーターサイクルと彼女を見たものは、抗いようのない力で魅入られていく。
・・・・会社員 木下康夫(42)の場合。

私を待っていた美女

彼女の顔には見覚えがあった。美人というだけでなく、本当に見覚えがあったのだ。
いつも仕事帰りに立ち寄るカフェで、ミネラルウォーターを飲む若い女性。いつも物憂げな表情で、どこか遠くを見るような目をしていた。
いつのまにか、私は彼女に声を掛けるタイミングを計っていたのかもしれない。少なくとも、彼女を見かけるたびに、彼女と目を合わせないようにしながらも、いつか視線が絡むことを心待ちにしていたのだ。

忙しい仕事。 代わり映えのしない日常。
何かを変えたかった私には、彼女はそのきっかけをもって訪れた、使者のように思えていたのかもしれない・・・。

そして、その瞬間は不意にやってきた。

その日、私は残業のため、いつもより30分ほど遅れてカフェにたどり着いた。ガラス扉を開けて、店内に入ろうとすると、そこに彼女が立っていた。しまった、と私は心のなかで舌打ちをした。馬鹿野郎、彼女はもう帰ってしまうじゃないか。
「こっちにきて」彼女は私の声が聞こえたかのように、私に向かって声を発した「ついてきて」
彼女は私の横をすり抜けるようにして店を出た。私は彼女が本当に私に声をかけたのか定かでなく、カラダをこわばらせながら振り向くと、彼女は歩きながらかすかに向き直り、私を見る。

間違いない。彼女は私についてこい、と言っている。

私は麻酔が半分効いたままの半病人のように、ふらふらと彼女を追った。店を出て、角を曲がると、暗い路地に彼女は誰かと私を待っていた。
誰かと??
それは一台の大きな鉄の馬だった。

彼女は黙ったまま、私をみやった。彼女の横には、一台の大型のオートバイがほんの少し車体を傾けて佇んでいた。大きくも見えるが、スリムでもある。
思っていた以上に長身の彼女は、微笑むでもなく、睨むでもなく、さりとて無表情というのでもなく私を見た。
私は「乗れないんだ。中免しかもっていないんだ」と、思わず問わず語りに言った。

いまさら大型バイクのサウンドに、飢えと渇きを思い出させられるとは・・・

すると彼女は、一瞬、それまでとは違う優しげな瞳を私に向けたが、すぐにまた元の不思議な表情に戻った。彼女は長い脚を閃かすと、オートバイにまたがり、エンジンをかけた。
低くて腹の底に響くエンジン音が辺りに響く。すると、私のカラダが共鳴したように震えだした。
私は彼女の長くて美しい脚に心惹かれながらも、同時にそのオートバイに激しい興味を覚えていた。

オートバイなんて、20年以上乗っていない。乗ろうと思ったこともしばらくない。
その私が、いまモーターサイクルの渇いたサウンドに共鳴しているのはなぜだ?
苦しい。なにかが足りていない。私はまだ飢えている。渇いている。まだありきたりの人生に納得できていない。オートバイが奏でる音楽は、私の心を震わせ、カラダのバランスを崩した。

みて。彼女は言った。

「乗りたいのであれば」彼女はかすれた声で続けた。「いつでも乗れるわ。あなたにも」
そういうと、彼女はスロットルをひねり、あっという間に闇に消えていった。
残された私のカラダには、まだ痺れるような震えが残っていた。


そして私は、彼女の背を再び追うことを決意していた。私もあのバイクを買おう。彼女と会話をするのはそれからだ。

この物語はフィクションです。登場する一切の人物・設定は架空のものです。

撮影協力:BADLAND
モデル:EREA