オートバイのロードレース世界選手権、MotoGP。
排気量別に3つのクラスに分かれているMotoGPですが、どのクラスでも過酷で危険な戦いが繰り広げられ、そこはまさに極限の世界です。そんな場所で戦う、日本人エースライダーをご紹介します。

4歳からポケバイに乗り始め、やがて世界へ…。

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世界で戦う日本人エースライダー、中上貴晶選手。
中上選手は1992年2月9日に千葉県千葉市で産まれました。
4歳からポケバイに乗り始め、6歳の頃にはポケバイレースにデビューし優勝。
9歳からはミニバイクレースに出場し、全国大会に最年少出場、3年連続優勝などの輝かしい成績を残しています。

中上が初めて乗った二輪車は、多くの選手たちと同様にポケバイでした。4歳の誕生日に両親から与えられ、「両親の趣味がカートだったので、父たちがレースをやっている間の時間つぶしに駐車場などで乗っていました。とても楽しくて、時間があればひたすら乗っていましたね」と中上。

そして、2015年現在はMoto2クラスの場で戦いを繰り広げています。

photos.motogp.com

中上選手は、アルベルト・プーチ氏が指導するMotoGPアカデミーを経て2008年と2009年の2年間125ccクラスに参戦。
2010年には戦いの場を全日本ロードレース選手権に移し、2011年にはJ-GP2クラスでシリーズチャンピオンを獲得しました。
そして、翌2012年から再び戦いの場をMotoGPへ移してMoto2クラスへの参戦を果たしました。

2010年のサンマリノGPでこの世を去った、幼い頃からのライバルであり親友の富沢祥也選手。

2010年9月、イタリアのミサノサーキットで開催されたサンマリノGPでの転倒事故により、19歳の若さでこの世を去った富沢祥也選手。
富沢選手と中上選手は、4歳でポケバイに乗り始めた頃からのライバルであり、親友でもありました。

2010年、ミサノにて、19歳の若さでこの世を去った富沢祥也選手。いつも笑顔で、明るく素直で、多くのファンや選手達に愛されたライダーでした。

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親友がこの世を去った地で、表彰台へ…。

富沢選手亡き後、2013年にミサノで開催されたサンマリノGP。3年前に親友がこの世を去った地で、初優勝を彼に捧げるべく、中上選手は戦いに挑みます。

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結果は2位。見事、表彰台に上がる事となりました。中上選手はチームの公式フェイスブックにて下記のようなコメントを残しています。

亡き親友へ…

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「今日ほど優勝したいと思った日はなかったです。勝利をショーヤに捧げたかった…パドックの中での一番の友人で、パドックの外でも一番の友人なんです。レースでは、彼が転倒した地点を最初に通過した時に挨拶しました。ゴール後、クールダウン・ラップの時にまた挨拶しに行きました…ショーヤのための2位なんです。
自分を責めなければならないようなところは、どこもありません…どのコーナーも、どの直線も持てる限りの全ての力を出しました。フロントが切れ込みそうになったり、転倒しそうな危険も何度かありました。僕よりも優秀な選手がいたと言うことです。」

富沢選手の母、有希子さんと「勝てなかった、ごめん…」と悔しさをにじませる中上選手。

www3.pictures.zimbio.com

「初優勝を勝ち取ることはできなかったけど、この2位は僕にとって…そしてショーヤ・トミザワのためにも、とても大切なものです。ここで初優勝を獲得し、ショーヤに贈りたいと思ってました。彼のお母さんや、他のご家族の方も来られてました。レースが終わって、第5〜6コーナー辺りでショーヤのお母さんが待っていてくれました。日の丸を掲げて…胸が一杯になってしまって。ショーヤの事を想うのは、僕にとって大切なことなんです。僕とショーヤは、ずっとライバルでした。5〜6才の頃から16〜17才ぐらいまで、いつも同じクラスに参戦し、レースの度に戦ってきたんです。僕らは親友みたいなもので…でも毎回、競合いになってしまって。僕にとってショーヤ・トミザワは、とても大切なんです。」

その後、なかなか表彰台に上がることは出来ず、苦しい時期を過ごした中上選手。2年間の時を経て、再び表彰台を獲得します。

www.mcnews.com.au

その場所は、ミサノ。
2015年サンマリノGP、ライバルであり親友である富沢選手が亡くなった地で開催された戦いで、中上選手は見事復活を遂げました。

表彰式を終えた中上選手は、大きく息をひとつ吐いてから
「いやあ、うれしいですね」
と笑顔を見せました。
「このサーキットは祥也がいるという意味でもすごく特別な場所で、レース前からなんとなく、今回はいけそうな気持ちがありました。予選では2列目以内に入りたかったのですが、3列目8番手になってしまい、少し不安もあったけれども、今朝のウォームアップではペースもマシンのフィーリングも良好でした。レーススタート直後の混乱をうまく切り抜けて前に出ることができ、それが3位表彰台獲得の大きな要素になりました。上位陣の選手はハード側のコンパウンドを選択していたのですが、僕はソフト側なので、特にレース終盤に厳しくなるだろうという覚悟はしていました。『ハード側のタイヤをうまく使えなかった分、そこは自分でなんとかします』とチームとも話をしていたので、高いモチベーションで臨みました。グリップがよく、ペースを順調に維持してうまくタイヤマネージメントができたことも、キーポイントだったと思います」

日本人初のMoto2クラスチャンピオンを目指して…。

www.honda.co.jp

現在は「IDEMITSU Honda Team Asia」に所属し、日本人ライダーのエースとして世界で活躍する中上選手。日本人初のMoto2クラスチャンピオンになる日を目指して、彼の戦いは続いています。