1980年代以降の世界ロードレースGP(モトGP)では、美しいパドック・ガールがサーキットを賑わせるのが常となっております。そういう習慣がなかった1970年代初頭、ある美しい女性の存在がコンチネンタルサーカスの話題となっていました。

「チーム・サーリネン」と呼ぶべきふたりの関係

1970年から世界ロードレースGPに参戦し始めたフィンランド人ライダー、ヤーノ・サーリネンは、いつも美しい女性を伴って行動していました。彼女の名はソイリ。ふたりが初めて出会ったのはヤーノが16歳、ソイリが13歳のとき。彼女の父はタイヤ工場を経営しており、息子が生まれることを望んでいたそうです。そんな父の想いを受けてか、少女時代のソイリは女の子らしい趣味に興味を持たず、ショートヘアーでモペッドに乗って走り回っていました。

1972年のチェコスロバキアGPで、ビキニ姿でヤーノにサインを出すソイリ。

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フィンランド国内でアイスレースやスピードウェイで活躍していたヤーノが、ソイリをGPに誘ったのは1971年の春でした。当時彼女は父の工場で働いていましたが、ヤーノに「残りの人生ずっとこの工場にいるのかい?」と問われ、迷うことなく彼女は愛するヤーノと共にサーキットを転戦する暮らしを選択しました。

ヤーノのレース活動をアシストするため、ソイリは必要なスキルの数々を習得しました。

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かつてのおてんば娘は何処へやら。美しい女性に成長していたソイリの姿は各地のGPパドックでの話題となりましたが、彼女はいわゆるパドック・ガールとは全く異なる存在でした。欧州各地の転戦のためVWのモーターホームを運転し、ヤーノのマシンメンテナンスの助手としてクランクシャフト交換などの作業を手伝い、そしてピットボードの提示役などあらゆるレース活動のサポート役をこなしていたのです。

ソイリの両手にあるのは、サインボードとプラグボックスです。グリッドやピットで2ストローク車のプラグの「かぶり」が発生したとき、素早く交換するためにプラグボックスは必需品でした。

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ふたりが暮らした"家"となったのは、VWベースのモーターホームでした。

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フィンランド人初のGPタイトル獲得。

1971年にプライベーターながら250ccクラスで年間3位、350ccクラスで年間2位という好成績をおさめたヤーノの才能に注目したヤマハは、1972年よりファクトリー・サポートの待遇を受けるライダーのひとりに彼を選びました。水冷のワークスバイクを手に入れたヤーノは、見事250ccのタイトルを獲得。そして350ccクラスでも王者MVアグスタに次ぐ年間2位に入りました。フィンランド人初の世界GP王者の誕生は、あまりモーターサイクルレースに関心のないフィンランドでも大きな話題となりました。

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1971年のニューイヤー・イブに、ふたりは教会で式を挙げて夫婦となりました。

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ファンたちに押し上げられ、ヤーノと一緒に表彰台の上に並ぶソイリ。

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"ファスト・ヤーノ"と"ビューティフル・ソイリ"のコンビは、たちまちGPで爆発的な人気を得ました。特にイタリアとオランダには熱狂的なファンが多く、ファンクラブが組織されたり、メディアが彼らのことを盛んに報道しました。イタリアではレース後に彼らをふたりを囲む人だかりができたため、警察車両が隊列を組んで彼らの脱出をアシストしたほどでした。

1973年、ヤマハは初の最高峰クラス用のYZR500を提げ、完全なファクトリー活動を展開することになります。そのエースに選ばれたのは、進境著しいヤーノでした。ヤーノがワークスチームに加入したことで、プライベーター時代のお金の心配からは解放されましたが、ソイリは依然彼のそばでレース活動を助け続けました。ヤマハの監督は、ソイリは故郷に帰らせて、子供を作り、家で子育てさせたらいいんじゃないか、とヤーノに助言したのですが、「ソイリがいないなんて考えられない」と彼はこの助言を拒絶したそうです(つづく)。

1973年フランスGPで、ヤマハYZR500を走らせるヤーノ。膝をバンクさせた側に接地させるのが当たり前のアイスレース/スピードウェイで腕を磨いたヤーノは、ロードレースの世界で初めて「ハング-オフ」を実践し、このフォームを後世に定着させたライダーと言えます。

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