オートバイにスピードやスリルを求めてしまう。そんな男たちのバイブルであり、侵すことのできない聖域。それが『キリン』。
ポルシェ911とのバトルの結果大事故に遭って生死をさまよった男、キリン 38歳。それでもバイクを捨てられず、妻子に去られてしまった彼は、スピードに賭けた青春に落とし前をつけるために、再び愛車カタナを駆り、宿敵911とのバトルへと向かうのだった・・・。

2018年3月16日追記:2015年9月4日に公開された記事を一部修正しました。

©2010 東本昌平/少年画報社

www.amazon.co.jp

少しでも速く走りたい!そう考えたことのあるバイク乗りなら、一度はこの東本昌平先生の『キリン』を手に取ったことがあるはずです。他のバイブル的なコミック、『あいつとララバイ』や『バリバリ伝説』の主人公たちと違って、『キリン』の主人公は38歳。十分な大人です。

過去に速かった、無茶をした、俺も昔はやんちゃだった、という回想ではなく、十代の頃のままの、理由のない怒りや焦りを引きずる男の話なんです。

主人公キリンの本名はわかりません。
ライオンに子供を襲われ、奪われてしまっても母親キリンは何もできない。それと同じように、四輪中心の社会の中で、剥き出しの生身のままアスファルトの上を信じられないような速度で疾走するバイク乗りは、非常に弱々しい立場です。車からのちょっとした悪意(あるいはいたずら)でも、生死に関わる重大な影響をもたらします。

しかし、キリンがそれでも生きていくのと同じように、バイク乗りもバイクに乗り続けます。それしかできないからです。だから彼は自分をキリンと名乗っているのです。

老いていく、時代に抗うことを諦めつつある自分に苛立つ主人公

ポルシェ911はバイク乗りを取り巻く厳しい環境の象徴であり、新時代の速いバイクたちからすると時代遅れであるキリンの愛車カタナは、38歳の彼自身と同様に、はるか年下の若者たちの勢いや、最新バイクたちの圧倒的な力に、か細くも対抗しようとする意地の象徴である

主人公キリンは、911とのバトルで重傷を負い、妻子に去られてしまいます。
その頃から、若さのままに911(キリンは911をデカ尻女と呼びます)を追いかける無鉄砲さを失い始め、バイクに乗ることも少なくなってしまいます。

そんな頃に、彼は24歳の美しい女と出会い、男と女の関係になります。
最初はゆきずりの恋と思い込もうとするキリンですが、徐々に彼女を失うことを恐れるようになります。それは、38歳になった自分が、今のそれなりに裕福で安定した生活を失うことを恐れている事実を、彼自身に嫌でも思い出させる結果となります。

「俺は老いているのか?」キリンは自問自答します。

 POINT OF NO-RETURN。

もう若い自分には戻れない。そんな哀しい自覚に、キリンは戦慄するのです。

クリスマスシーズンに出会った女

一夜を共にした後で、余韻を振り切るようにバイクにまたがるキリン

向こう側にいるのか、まだこっち側にいるのか?

キリンは、彼女との出会いをきっかけに、自分は既にバイク乗りとして 若い頃の自分とは変質してしまっているのかもしれない、と思い始めます。

大学時代に911とのバトルに敢えなく敗れて以来、911に勝つことに執念を燃やし始める

自分は既に、老いたのか?
もうあの頃のきらめきを感じることはないのか???

そんなとき、恐ろしく速く走れる、本物の911乗りにキリンは出会います。その瞬間の胸のときめきに、彼は自分はまだこちら側にいるのだ、と確信するのです。

一方で、キリンが、自分が理解できない苛立ちと葛藤に苦しんでいることに気づくと、少しでも分かち合うために、彼女はバイクの教習所に通うのです。
このあたり、とてもいじらしく、胸がキュンとするエピソードです。

911との一騎打ちに挑む

そんな彼女の想いを知らず、キリンは、仕事先で知り合った、橋本という男がポルシェマニアであり、腕に自信があることを知り、彼に浜松までの公道レースを同意させます。

うまく挑発して、勝負に同意させるキリン。

浜松までのレース。二人の意地が激突する

橋本もまた、ちょこまかと自分の車の前や横を動き回るバイクに苛立っており、愛車の911でバイク乗りを完膚なきまで叩きのめすチャンスを、表面上は渋々ながら、冷たい憎悪と軽蔑の想いを抱えて、キリンの挑戦を受け入れるのです。

あなたの心のスロットルを全開にしてくれる、一生に一度のスーパーストーリー

激しいバトルの末、キリンは橋本が駆る911をリードし、ぶっちぎりにかかります。
しかし、彼のカタナはトラブルを抱えていました。なんとクラッチワイヤーが切れてしまっていたのです・・・。

だましだまし走っていたキリンですが、いよいよ911を引き離しにかかった瞬間に、ギアが吹っ飛び、コントロール不能になります。

クラッチワイヤーが切れ、高速走行時にギアが抜けてしまって・・・

そしてそのままカタナはガードレールを突っ切り、海へと転落してしまいます・・・。
(幸運なことに、彼は脚の骨を折るだけで済み、カタナものちに海から引き上げることができるのですが、衝撃的なシーンでした)

海へとダイブしてしまうキリン。
しかし、ラッキーなことに命に別状はなく、脚の骨折だけで済みました。

ボクシング漫画最高傑作の『あしたのジョー』でも、ジョーは宿敵ホセ・メンドーサを追い詰めながら、勝つことはできませんでした。同じようにキリンもまた、911に結局勝つことはできませんでした。

しかし、ホセがジョーの猛攻に髪が真っ白になるほどに恐怖を感じたように、911を運転する橋本もまた、キリンとカタナの凄まじい走りに驚愕し、期せずして尊敬の念を覚えさせてしまうのです。

『キリン』は『バリバリ伝説』のように分かりやすいストーリーもなく、『あいつとララバイ』の気楽さや爽やかさもありません。
中年にさしかかり、若者にはジジィとかおっさんと罵られるようないい大人の、常軌を逸したやんちゃのお話です。

実際にそれをやるかどうかは別にして。若さや最新の技術に対して、強い想いや技術、経験で対抗する、大人なりの意地と気合いがそこにはあります。

『バリ伝』や『あいララ』は大人になってから読むと、少しは面映さや眩しさを感じますが、『キリン』はバイク乗りである限り、90歳になっても強く共感するでしょう。

確かに公道レースという、激しくある意味反社会的な行為を描いているわけですが(バイク漫画全てがそうなんですがw)、速く走るバイク乗りを礼賛しているのではなく、死ぬまでバイクに乗る意思を持っているということが大事だと東本先生はぼくたちに伝えてくださっているのです。

大人の、大人による、大人のための、バイク漫画の決定版。

それが『キリン』です。

4巻以降は主人公キリンは出てこなくなり、本編の911とのバトル編から参入してくるバーンストームトゥルップスの”マスター”や、キリンに憧れを抱く若者チョースケなどが活躍するようになります。それらのエピソードもとても楽しくのめり込むものですが、それでもこの『POINT OF NO-RETURN』の息がつまるほどの、激しい情熱と怒りの物語は、別格のように感じます。

ぜひ、この『キリン POINT OF NO-RETURN』を手に取って読んでください。

あなたがもしバイクに乗っていないとしても、生き方の問題、心の中の青春の問題として、あなたの心にきっと火がつくことと思います。

我が名はキリン。

それは、バイク乗り全員が胸の中で呟ける魔法の言葉なのです。