旧約聖書の『出エジプト記』を(わりと)忠実に映画化
古代エジプト王国。そこでの神とはファラオのことだ。
しかしファラオとは別の、神を信じる、40万人のヘブライ(イスラエル人=ユダヤ人)の民が奴隷として虐待されていた。彼らはいつか自分たちを苦境から救い、”約束の地”カナンに戻るために、神が救世主を遣わせると信じて耐えていた。ファラオはヘブライの信仰を恐れ、新生児を殺害するよう命じる。
たった一人、難を逃れたモーゼは王族に拾われ、ファラオの長子ラムセスの従兄弟として育てられたが、ラムセスは、リーダーとして自分よりも優れるモーゼを警戒していた。やがてファラオは急逝し、ラムセスが後を継ぐが、モーゼが実はヘブライ人であることを知り、彼を追放する。
その後、エジプトには10の災厄が訪れ、ヘブライの民がその原因と知ったファラオ(ラムセス)は一度は彼らの出エジプトを認めるものの、すぐに心変わりして彼らを殲滅するために軍隊を派遣する。
モーゼは40万の民を率いて、命をかけてエジプトを脱出することを決意するが、エジプト軍との激しい戦闘の末、紅海に追い詰められてしまう。
神に従う者と、神になろうとする王の戦い
この物語は、一度でも旧約聖書を読んだことがあるならば、必ず知っている、世界一有名なストーリーの一つだ。だからいまさらネタバレがどうこう言ってもしょうがあるまい。
モーゼと彼を信じるヘブライの民は、神の奇跡によりエジプトからの出国に成功する。彼らの目の前に広がった紅海はまっぷたつに割れ(映画では、うっすらと潮が引き、「あれ?通れちゃう?」という程度の道であるw)、ヘブライ人たちを通すが、その後を追うエジプト人たちを波に飲み込んでしまう。人類が初めて目にする巨大かつ荘厳な奇跡のスペクタルだ。
モーゼは神に選ばれた男であり、ラムセスは神になろうとした男だ。その二人の世界観と背負っているモノはまるで相容れない。
イエス・キリストの登場によって、局地的や特定民族だけを優遇する神ではなく、信じる者をすべて懐に収めてしまう”世界的”かつ”全人類的な”神が登場する。言い方はまずいかもしれないが、神という概念のグローバリゼーションだ。
この映画における神と王の戦いは、世界的な神の登場の前。エジプトの神とヘブライの神の戦いである。
本作は、宗教的な題材をモチーフにしているが、決して宗教的な映画ではない。
前述のとおり、この映画で描かれるヘブライたちの神とは、冷酷で報復を好む、自分と”契約”を結んでいない相手に対しては尋常ならぬ非情さを持つ。スーパースピリチュアルな存在ではあるが、愛を語る存在ではないからだ。
本作の主人公モーゼも、神の存在に恐れおののきながらも、神が為す悪意ある奇跡に対しては疑問を抱かざるを得ない。神とはいうが、キリスト教の神でもイスラム教の神でもなく、特定民族としか契約を結ばない、ローカルな神であり、愛や慈悲ではなく奇跡的な力だけを示すからだ。
本作は、古代における”グローバル化”以前の神と、それに対抗する人間たち(神になろうとする王と、神を恐れながら異議を隠せない預言者を含む)の物語である。