ヤマハのWGP・MotoGP参戦から50周年を記念したスペシャル企画をご紹介します。

過去のレースの出場記録や、コラム、壁紙ダウンロード、さまざまなコンテンツが揃っており、ヤマハファンにはたまらない素晴らしいデーターベースになっています。

いや、ヤマハファンならずとも、WGP・MotoGPの歴史を振り返るには格好のサイトです。
ケニー・ロバーツエディ・ローソンなどの名レーサーのデータも揃っており、全部見ていくと1日が終わってしまいそうな充実ぶり!

この週末の楽しみがまた一つ増えますよ!

global.yamaha-motor.com

ヤマハ(当時・日本楽器製造株式会社)がモーターサイクルの第一号機YA-1を国内市場に投入した1955年は、戦後林立した多数の二輪メーカーによる販売競争がもっとも激しかった時代。YA-1は他社製品と比べて非常に高価なうえ、「楽器屋のポンポン(バイク)はドレミファとでも鳴るのか」と揶揄され、売れ行きは芳しくなかった。

 そんな状況を知った川上源一社長(当時)は、YA-1の優れた性能と品質を証明すべく、富士登山オートレース全国大会への参加を決断する。1953年に始まったこのレースは、当初、観光客の誘致を目的としたイベントだったが、第2回大会では、販売店へのアピール効果に目をつけたメーカー各社の参加が急増。一気に日本を代表するレースとなっていた。
 川上社長が参戦を命じたのは、1955年7月10日の第3回大会。だが、開催日までに残された時間は1ヵ月半。その間にYA-1を優勝できるマシンに仕上げなければならない。静岡県の浜名工場で、社運を賭けた戦いが始まった。

2台1組ずつ30秒間隔でスタートするタイムトライアル方式のレースに備え、ヤマハは練習の時からスタート、1合目、ゴール(2合目)の3箇所に無線要員を配置してタイムを測り、チーム戦略に役立てた。
 とはいえ、マシンは市販状態のものに限られており、ほとんど手が出せない。残されたわずかな余地、可能性を求めて手探りの開発である。改造せずにエンジン出力を上げる方法……。考えあぐねたスタッフは、ある時「燃料の質を上げたらどうだ?」と思いつき、航空機用ハイオクガソリンを試してみた。すでに日が沈み、薄暗い中で走行実験を続けていると、誰かが叫んだ。

「おい見ろ、赤く光ってないか?」
 その光は紛れもなく、YA-1のエンジンから発していた。点火プラグの熱価が低かったため、シリンダーヘッド周辺が真っ赤に焼けていたのだ。そんなことの繰り返し。失敗は山と募り、時間ばかりが過ぎていく。「いったどうすればいいんだ…」。口をついて出る言葉は、自分たちの無力さを煽るだけだった。
 ところが、奇しくもヤマハ発動機が創立した7月1日、開発スタッフに思い掛けない幸運が舞い込んできた。この日届いたDKW社製RT125の新型マフラーをYA-1に装着してテストをしてみると、それだけで0.5馬力パワーが上がったのだ。驚いた技術者たちはすぐにその原因追求に取りかかり、2ストロークエンジンの性能がマフラー形状によって左右される(カデナシー効果)ことを初めて知った。  ようやく見つけた突破口。この日からレースまでの一週間、技術者たちはこれまでに費やした時間を取り戻すかのように、寝る間も惜しんで純正マフラーの改良に全力を注いだ。
 一方、レースで勝つためには優秀なライダーの育成も必要である。とはいえ、日本楽器の社内にそんな人材がいるはずもない。そこで6月半ば、東京の二輪販売店に相談して10人のライダーを集め、そのまま静岡県富士宮市内で合宿を開始した。レースのスタート地点・浅間神社前からゴールの富士山表口2合目まで、来る日も来る日も、登山道を繰り返し走り続けるハードトレーニングである。

工場で使う白い木綿のツナギ服で出場した第3回富士登山レース。革ツナギの存在を知らなかったせいだが、かえって鮮烈印象を残した
 そのライダーたちを、浜名工場のスタッフも全力でサポートした。毎日レースさながらの走行練習を行うためには、消耗パーツを絶えず補給する必要があったからだ。こうして、限られた時間のなかでともに戦うライダーと開発スタッフは、勝利という目標に向かって結束を固めていった。
 そして大会当日、YA-1に乗る岡田輝男が、タイムトライアル方式のレースで29分07秒を記録して125ccクラス優勝。さらに3位、4位、6位、8位、9位までYA-1が独占し、その優秀さを全国に知らしめた。
 これをきっかけに、ヤマハは数々のレースに挑戦。モーターサイクルメーカーとしての基盤を確立していく。