1996年から教習所で自動二輪大型免許が取得できるようになり、この制度を利用して大型免許を所得した方は多いでしょう。1975〜1995年までの約20年間は、大型免許は各都道府県の試験場でしか取得することができず、中型免許(現在の普通免許)や小型免許の保持者が大型免許取得にトライすることを、当時は「限定解除」と呼んでいました。今は大型と普通と免許自体が分けられているので、限定解除とはならなくなったわけです。

東大入試より難しい??

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なお免許のナイ状態からイキナリ大型免許に挑戦する「一発免許」もありましたが、行政指導?により何らかの2輪免許をもっていない者には大型免許を受験させなかった、という話も当時は耳にしました。全国共通の免許なのに、都道府県によって取得条件が変わるのも無茶苦茶な話ですが、合格しやすい試験場と合格しにくい試験場があったみたいです(都内は鮫洲試験所より府中試験所がカンタンと言われてました)。

一説には当時の限定解除の合格率は10%とも言われており、「東大入試より難しい!」と(大げさに)言われることも・・・。昔のことで記憶があやふやなのですが、検定はまず引き起こしと取りまわしをチェック。この時に使われる車両(ホンダCB750FourとかスズキGT750など退役車)の燃料タンクには、「砂やセメントが詰められている」というまことしやかな噂がありました(笑)。


「鬼の中川」さんはお元気なのでしょうか?

実技はA、Bコースのどちらかを規定通り走行する方式で、順番待ちの受験者は所内に貼られたコース図を見て、「ブツブツ・・・」つぶやきながらイメージトレーニングをするのが常です。皆真剣ですがそれも当たり前で、検定中止になれば試験の印紙代2500円?はボッシュート(涙)。帰り際に次回の予約をするのですが、1980年代は「次は2週間後の木曜が空いているよ〜」と窓口のおばちゃんが言うように、受験者が多くて試験の予約を取るのも大変だったのです。

大型免許を取るためには練習が大事でした。そのため当時は、民間の大型自動二輪専門の練習場というビジネスが存在していました。一番有名だったのは、「鬼の中川」こと中川自動二輪教習所(名称正確に覚えてませんが)でしょう。当時「オートバイ」誌や「モーターサイクリスト」誌の広告、「本気で取りたければオレのところにこい!」(コピー正確に覚えていませんが)をご記憶のベテランライダーも多いのでは?

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すべては遠い日の思い出に・・・

当時を体験した身としては、運転技量はもちろんゼロでは通りませんが、限定解除に必要だったのは技量よりも「プレイ」や「ゲーム」感覚だったと思います。「プレイ」というのはロールプレイ、つまり「規範的安全運転者」になりきる遊びです。白いジェットヘルメット、ジーンズをブーツイン、ハキハキと教官に受け応え・・・所内にいる間は普段のズボラな自分をいかに隠すか・・・に腐心したものです。

ゲームというのは、検定コースを走るのはロールプレイングゲームの「隠れキャラ」探し・・・みたいな感覚です。ご親切な先輩受験者が「インに寄っているかどうかは、あそこのマンホールを踏んだかどうかで教官は判断している」とか、口伝(笑)で教えてくださりました。「秘密のアイテム」を全部揃えて完走すれば合格・・・という感じです。残念ながら、あそこで覚えたことは今はほとんど覚えてはおりません(苦笑)。

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当時所属していた雑誌編集部で「あなたの限定解除エピソード」を募集したところ、段ボール箱いっぱいに投稿があって驚いたのを覚えています。中身は「20回受験してやっと受かりました。この免許は一生の宝です」とか、「私の明石試験所完全攻略マニュアル(原稿用紙40枚!)」とか、上述した私の文章みたいなの(笑)とかでした。みなさん苦労しただけ、語りたいものがあるんだなぁ・・・と思ったものです。

出典:http://hanno-ds.com/

ちなみに限定解除体験者のなかには、教習所で免許を取得した方を免許を買った人・・・「買い免」と呼んでバカにする人もいるとか・・・。誇りを持つことは大事だと思いますが、それが人をバカにしないと得られない誇りであるなら、捨ててしまったほうが良いと私は思います。過去は過去・・・私たちは今を生きているのですから。