デカダンスには知性と教養が不可欠

退廃主義者を目指すには知性と教養は欲しいところだ。退廃主義上級者であれば彼女と二人アール・ヌーボーなエミール・ガレのステンドグラスの灯りでオペラを聴きながらワインはシャンベルタンを飲み,

「このシャンベルタンを愛したナポレオンはカストラート禁止令を出したんだよ」

「カストラートて何?」

「ボーイソプラノの美声を保つために若くして性的去勢された歌手のことだよ」

「可哀想ね。。」

「そんな彼が女性に恋をしてしまった時はどうしたんだろうね?
でも去勢されたからその分キスはとても上手かったかも知れないよね。
こんな風だったかも・・」

「あ。・・・」

なんて言いながらキスに持ち込むこともできるかも知れない。

まあそこまでは必要無いとしても,まずはアートに対する好奇心は持ちたいところだ。

お薦めは現代アート。

何故なら特に事前知識を持たなくても感性で楽しめるアートだからだ。昨年話題になった会田誠の作品のように正々堂々と昼間からデートで普通に考えたらあり得ないような妄想エロスな作品を彼女と二人で鑑賞することもできる。同じものを昼間に自宅で見せたら「変態!」と言われるかも知れないが,美術館で見せれば「深いわね。」となる。


アートはエロス、エロスはアート

女性にとってアートはエロスを正当化できる魔法でもあり,AVに抵抗がある女性でもシアター系の官能映画であれば食い入るように見ることができる。アートに関心のある女性であればそこをきっかけに扉をあけていくことが可能になるし,そもそもアートが好きな女性はかなりの確率で官能度はとても高い。

最近はお一人様の時はAVでもアダルトグッズでも抵抗なく積極的に楽しむことができる女性が増えているが,やはりまだ会ったばかりの男性の前でそうした自分さらけ出すことができない女性は多いだろう。

女性の本能的なエロスをガードしているバリアは明治以降の日本政府が教育してきた儒教的道徳感と、戦後の米国の保守的なキリスト教的倫理観が大きい。
以前に書いた日本男性のネオテニーな精神的幼さを気遣っている部分ももちろんあるだろう。そしてこの理性的な呪縛を解いてあげるための鍵を女性達は求めている。その鍵としてお酒の力だけに頼るようでは退廃主義者とは言えない。もちろんお酒もひとつの要素としては大事だが,せっかくの女性のエロスな脳を麻痺させてはもったいない。理性がしっかりと自分のエロスを認めさせてあげる鍵を使うことが我々退廃主義者紳士のミッションだ。

だから我々は女性と出会ったばかりでもその知性と教養という鍵を身に付け女性の官能が隠されている扉を開け放ち,解放してあげなければいけないのだ。

アートはエロスの入口でもあり,変態ですら正当化される魔法の鍵でもあるのだ。