自動車の世界では非常にメジャーなモノコック応力外皮構造は、そもそも飛行機から発展してきた技術です。クルマや電車などの乗り物ではモノコックの採用例が多いですが、モーターサイクルなどの2輪車では鉄やアルミのチューブを用いたフレームが主で、モノコックの採用例はそれらに比べるとかなり少ないと言えるでしょう。
戦前に登場した前衛的なアスコット・プリン。
そもそも20世紀前後の時代から発展したモーターサイクルの車体は、黎明期には自転車の車体の考え方を取り入れて作られていました。そして生産性や整備性やコスト面など、いろんな点でチューブラー・フレームが都合が良くて、これが主流のまま今に至る、と考えていいでしょう。
しかし歴史の本の中を探してみると、意外と多くのメーカー、コンストラクター、そして個人が、モノコックの概念をモーターサイクルに取り入れることにトライしてきたことがわかります。その全てをあげていくのは枚挙にいとまがないので、ユニークな代表例の幾つかをご紹介したいと思います。
大恐慌前の1928年に英国で作られたアスコット・プリンは、モノコックの考え方を最初に採用したモーターサイクルのひとつ、と言えるでしょう。500ccの4ストローク水平単気筒を、プレス鋼板の車体に搭載。フロントフォークもプレス鋼板製でした。そのほか油圧式のドラムブレーキを採用するなど、実に前衛的な作りのモデルです。
プレス鋼板のフレーム・・・は後に英国車のアリエル・リーダーや、日本のホンダ・スーパーカブなどの実用車でも実現されましたが、これらに比べるとアスコット・プリンは「応力外皮構造」と呼ぶにふさわしいカタチと言えるでしょう。
最も成功したモノコック採用例はやはりベスパ!
2輪の世界で、モノコックを採用したモデルで最も商業的に成功したのはイタリアのピアッジオでしょう。1948年に生まれたベスパスクーターは、航空機製造で名を馳せたピアッジオならではのモノコックが与えられておりました。
のちにスクーター・エンジニアリングの主流は、イタリアのイノチェンティ・ランブレッタ風のフレームタイプに移行することになりましたが、レッグシールド、ユニットスイング、ステップスルーなどのベスパが打ち出したスクーターデザインの多くは、多大な影響を今日にも及ぼしています。
ロードレースにおけるモノコックの成功例。
生産性、コスト、整備性よりも、何より「速さ」が優先されるロードレースの世界では、実は結構いろいろなモノコックが誕生しています。ライバルたちに対するアドバンテージを得るために、オルタナティブな車体にトライしよう! という試みでした。
1968〜1970年の世界ロードレースGP250ccクラスに参戦したサンチャゴ・ヘレーロは、オッサの250モノコックで4勝をあげるという活躍をしました。1969年はランキング3位獲得。残念なことに、ヘレーロは1970年のマン島TT250ccクラスで事故死してしまい、以降オッサは参戦を停止。この250モノコックはその後の発展の機会を失ってしまいました。
1973年のマン島TT F750クラスを制覇したジョン・プレーヤー・ノートン750は、モノコックのロードレースにおける成功例のひとつです。100馬力以上の大パワーを誇るカワサキH2RやスズキTR750などのライバルに対抗するため、徹底的に軽量さ、低重心、そしてエアロダイナミクスを追求。その回答として生まれたのが、このモノコックでした。なおこの骨格は、今日的なツインスパー形状のフレームの元祖とも評されています。
コンパクトな車体を追求して生まれたモノコックのロードレースの成功例は、かつて世界ロードレースGPで開催されていた50cc・80ccクラスにもあります。その代表例がクラウザー80でしょう。スイス人チャンピオン、ステファン・ドルフリンガーの愛機として知られているマシンです。
モノコックに挑戦した日本製ロードレーサー。
日本のメーカーもロードレースの分野では、モノコックに挑戦しております。ただ、いずれも成功したというためのひとつの目安・・・勝ち星をひとつもあげることはできませんでした。
これからも技術者たちの挑戦は続いていく・・・。
スペインのJJコバスが生み出したアルミ合金製ツインスパーを、世界中のメーカーがこぞって採用するようになった1980年代以降、ロードレーサー及び量産ロードスポーツのフレームでモノコックが試される例はかなり少なくなりました。しかし、新しいモノコック開発の試みが、全くなくなったわけではありません。
今後、どのようなモノコック採用例が登場するのか、そしてその乗り味とポテンシャルは・・・興味が尽きることはありませんね。