本作は、過去の過ちを闇に葬り去るのではなく、正しく向き合う勇気を持った、法の番人たちの姿を描いている。
法を信じて生きてきた青年が直面した驚くべき真実
主人公はクソ真面目(失礼!)な青年検事ヨハン。彼の信条は”法は法”。法を曲げることはどんな些細なことでも許せない。
ある時、彼は 新聞社の記者が元・武装親衛隊員(つまりは元ナチ)が身分を隠して教師をしている事実を告発しようとしているところに出くわす。しかもどの検事も記者を相手にしようともしない。
生来の真面目さで、記者の告発を調べ始めたヨハンだが、その教師がアウシュヴィッツ強制収容所で働いていたことを知る。しかし、なんと彼はアウシュヴィッツがどういう場所かどうかを知らないのだ。
それどころではない、記者は青年検事の前で、何人かの人間に「アウシュヴィッツを知っているか?」と問いかけるが、誰もが「知らない」と答える。このシーンは非常に衝撃的だ。
あなたがもしユダヤ人だとして、ドイツ人がアウシュビッツを知らない、と答えたら、即座に殴りかかりたくなるだろう。アウシュヴィッツはナチスドイツが行った悪業をもっとも端的に象徴的する場所だからだ。
ドイツという国がもし、国民に第二次世界大戦を引き起こし、特定の民族に対して行った非人間的な行為を、恣意的に教育の現場から除外しようとしているとしたら、僕たちはとてもじゃないが、民主主義を信じる気にはならなくなるだろう。(実際には、本作のような映画ができているということ自体が、決してそうではないという証明であるのだが)
普通の人たちが犯した許されざる罪に戦慄
本作では、アウシュヴィッツで起きた犯罪行為を暴き、白日の下で法の裁きを与えようと奮闘する若き青年検事の姿を描く。アウシュヴィッツ強制収容所にいた親衛隊員たち全ての存在(ナチス党員は1000万人いたという。アウシュヴィッツ駐留は8000人)を明らかにし、さらに彼らが行った暴力と大量殺人のすべてを、ヨハンは明らかにしていこうとするが、その過程で嫌がらせや妨害をしようとする人たちも出てくる。それは変わらずナチスのシンパであり続けるグループでもあるが、単に過去の亡霊を封じ込めておきたい”普通の”姿勢の人たちでもあるのだ。
ヨハンは懸命な捜査の中で、アウシュヴィッツの非道は、そうした普通の人たちが行ったものであり、ヒトラーは一人ではなかった、顔のないヒトラー は無数に存在し、多くの人を死なせてきたという救いのない真実に慄くのだ・・。同時に、自分がそのときその場所にいたとしたら、同じことをしてしまっていたかもしれない、そう思わざるをえないことにまた、心から恐怖するのである。
しかし、それでもヨハンは、志を共にする仲間とともに捜査を続ける。
そして、1963年12月20日 フランクフルト・アウシュヴィッツ裁判の初公判が、開かれるのである。