少年漫画としても、バイク漫画としても歴史に名を残した大ヒット長編バイク漫画がどのように生まれたのか・・・。この連載ではモーターマガジン社から出版されている「750ライダーファンブック」の記述を元に750ライダーの誕生までの経緯から、制作現場の裏事情をご紹介していきます。(akiko koda@ロレンス編集部)
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【750ライダー誕生秘話 「750ライダー」はこうして生まれた】Vol.1石井いさみさんが“超売れっ子!”になるまで
描きたいものを描けるという立場に青春を取り巻いた クルマとバイクたち
コミックの新人作家にとっては、自分で思いついたアイディアとストーリーで作品を描くことなど夢のまた夢、と言っていい。どんな作品が読者に支持されるのか、売れる作品とはどうあるのかを見定めるのは編集者の眼力であり、作品をそうあるように導くことこそが彼らの仕事なのだ。
だからコミック編集者は、ヒットを飛ばせそうな作家と出会ったとき、まずは自分の所属する雑誌が求める作品を描くことを要求するのが常になる。たいていの新人作家は、これで面食らうのだが、この期待に沿えなければ編集者との信頼関係を築くことはできない。(文:船山 理)
このハードルを超えられて、初めて自分の描きたいものを世に問う立場が得られるのだ。ところが石井さんは、先の作戦で各雑誌の編集部に「 石井いさみは超人気作家だ 」と印象づけたことで、一足飛びにこの立場を得てしまった。失敗は許されないが、望むところだった。
59年の春、それまで月刊が主流だったコミック誌に大きな転機が訪れる。講談社と小学館から、初の週刊誌となる『 少年マガジン 』『 少年サンデー 』が同時に創刊されたのだ。石井さんは新たな需要に慎重に対応し、少年サンデーで『くたばれ涙くん』をヒットさせる。『 ケンカの聖書 』『 青い鳥の伝説 』『 竜が斬る! 』と続けざまに連載を獲得します。 (文:船山 理)
漫画家として軌道に乗り始めたこの頃。着々と編集部の要望に応えて連載を熟していきましたが、石井さんにはどうしても描きたいものがあり、それは心の中で燻っていました。
いっぱしのやんちゃライダーだった石井さんの青春エピソード
それは青年時代の日常に遡る。世はまさにバイクとスポーツカーのブームであり、このころの石井さんの友人の中には、後に自動車レースでトップドライバーとして覇を競った 酒井正さんもいた。63年に開催された第1回日本グランプリ自動車レース大会に招待された彼は、 トライアンフTR‐3 に石井さんを同乗させ、レースが開催される鈴鹿サーキットに向かっていた。 (文:船山 理)
箱根を越えようとするまでハンドルは石井さんが握り、その後にオーナーの酒井さんと交代。その20分ほど後のことだ。トライアンフはコーナーを曲がり切れずに オーバーランして、沿道の民家に激突する。シートベルトを締める習慣などない時代だから、石井さんは道路のまん中に放り出された。自慢の革ジャンパーは傷だらけになったが、奇跡的にケガはなかった。
衝撃を吸収したのは意外なことにトライアンフではなく、ぶつけられた民家だった。見ると基礎の土台から建物が十数センチもずれていたという。幸いなことに衝突時に民家は無人で、トライアンフはその後も走り続けて無事に鈴鹿にたどり着いた。 (文:船山 理)
ヤンチャをくり返した石井さん。石井さんは当時 ヤマハのYDS‐1 に乗っており、ヤマハ工場レーサーと同様の赤いロングタンにハンドルはセパハンにカスタムするほどのバリッバリのライダーでした。
いつものように仲間と五反田から第2京浜 (国道1号線)を飛ばし、多摩川大橋まで駆け抜けることをしていたある日の出来事以来、石井さんのバイクに対しての意識が変わります。
強烈な記憶となったバイク仲間の死
多摩川を越えれば神奈川県になるので、追いかけてくる白バイも、その先で管轄の異なる多摩川大橋に差し掛かると引き返してしまう。それを知っていた石井さんたちは、そんな白バイをからかって遊ぶこともまた日常だったのだ。
ところが業を煮やした警察は、暴走するバイクを一網打尽にしようと多摩川大橋に検問を敷いた。そこに石井さんが親しくしていたバイク乗りが、 検問をすり抜けようと突っ込んで行く。しかし彼のバイクは対向車の3輪トラックと衝突し、多摩川大橋からライダーもろとも転落してしまったのだ。 (文:船山 理)
この経験から、「バイクは楽しいばかりじゃない。その裏面には常に死というカードが貼りつけられているのだ」 ということを深く刻み込むようになったそうです。つづく…