50歳をゆうに過ぎてから突如ダートトラック・フィーバーに取り付かれ、あれよあれよとのめり込んだオールド・ノービス (自称) 鈴木貞好という名前に馴染みがなくとも、彼の屋号 "Petty Painter's Paradise" あるいは "ペティのスーさん" という呼び名はどこかで耳にしたことがあるかもしれません。アメリカンハンドライティングを探求する我が国の第一人者のひとりで、サインペインター (本人いわく手書き看板屋) として数多く拘りの手仕事を残した彼は、先日61歳でこの世を去りました。

追悼、我が国のダートトラックにわりと縁深い"クチうるさい看板屋の親父"

少年期より重度のアメリカかぶれだったスーさんは、10代の早いころから本気のスケートボードにのめり込み始め、20代になるとその興味はアメリカンスタイルのモトクロスへも向かって、ヘルメットも本場のライダーみたいな雰囲気に自ら塗って "その気になる" ような若き日を過ごします。

本人はモトクロスしかやりませんでしたが、1980年代半ばのアメリカのレースシーンはどれも好きで、ヨーロッパのGPレースとはまったく雰囲気の違うロードレースマシンに、手書きのライダーネームが筆で描かれているのに注目したことが、彼の生涯にわたる方向性を決定づける大きな契機になったのでした。

画像1: 追悼、我が国のダートトラックにわりと縁深い"クチうるさい看板屋の親父"

特にスーさんが心奪われた文字を描くサインペインターは、ニュージャージーの日系二世 "ヘンリー・ザ・ブラッシュ = 筆のヘンリー" ことヘンリー・F・カトー氏で、フロリダ州デイトナビーチのバイクウィークに足を運んで実際会ったスーさんは、ペイント技術のあれこれについて事細やかに教えを受けたそうです。ちなみにこの年 (1990年ごろ?) デイトナのフットボール場で観たショートトラック戦が、彼にとってダートトラックレースとのファーストコンタクトだったとか。

"オイラはただのペンキ屋、カンバン屋だよ" を信条として、様々なシーンで活躍を始めたスーさんは、カスタムペイントヘルメットに特化した日本で初めて?とも言われる個展を開いたり・・・

画像2: 追悼、我が国のダートトラックにわりと縁深い"クチうるさい看板屋の親父"

2000年ごろに再販開始・大々的なサイズ拡充が図られたダートトラックスタイルのストリートタイヤ "ダンロップK-180" の広告ヴィジュアルの手書きデザインパートを担当したり・・・

画像3: 追悼、我が国のダートトラックにわりと縁深い"クチうるさい看板屋の親父"

全米プロダートトラックレースシーンにてブライアン・スミスやジャレッド・ミースにケヴィン・アサートン、JR・シュナベルなど多くの実力派サポートライダーを擁し、一時はGNC決勝18人のうち着用率がなんと50%を超えることまであった、日本のレザースーツブランド "GREEDY Racing Leathers" の初期ロゴデザインの一部は彼の仕事だったり・・・

画像: クッショントラックで前走車のルーストを激しく浴びたような顔面の汚し塗装?は2014年くらいにスーさんの中で大流行して無理矢理実験台になったもの。クリス・カー/HDファクトリーのデザイン + アメホン風カラー。

クッショントラックで前走車のルーストを激しく浴びたような顔面の汚し塗装?は2014年くらいにスーさんの中で大流行して無理矢理実験台になったもの。クリス・カー/HDファクトリーのデザイン + アメホン風カラー。

筆者ハヤシが2008年、キャリアで初めて優勝した時のヘルメットも彼の手によるものでした。その後もいくつも塗ってもらって、経緯は忘れましたがペイント代金がわりにオンボロXR100を2台?渡したりしたことも。後年その2機のエンジンを活かして、スーさんが悪夢のように速い自分用ミニダートトラッカーを仕立ててくるなど、その時はまさか考えもしませんでしたけど・・・。

自分らでレースシリーズやるって?だったら俺にもなんか手伝わせろよ!

ここまで我が国ダートトラックシーンや我々との接点は幾度もありましたが、彼自身がダートトラックにムクムクと興味をもって、自ら鉄スリッパーを履くことになるのはさらに時を経て2010年代。

画像1: 自分らでレースシリーズやるって?だったら俺にもなんか手伝わせろよ!

国内の公式なレースシリーズが2011年シーズンで終了・レーストラックも閉鎖解体の憂き目にあって、筆者と仲間たちが新たに本場アメリカの活気あるローカルレースを強くイメージした、独自の小さなイベント "FEVHOTS: Far East Vintage Hotshoe Series" を立ち上げようとしていたところに、"シリーズロゴのデザイン手伝うよ (いや・・・おい俺にやらせろ!だったかも) " と声をかけてくれたのがスーさんでした。

画像2: 自分らでレースシリーズやるって?だったら俺にもなんか手伝わせろよ!

本業であるペインターとしての実演ブースで自身が各地のイベントに出展するときには、ダートトラックと我がFEVHOTSのPRのため毎回我々を呼んで車両展示するスペースを融通してくれたり・・・

そうして顔を合わせる機会が以前より増えてきた2014年ごろ?ついに彼は "俺もやろうかな?鉄スリッパ作ろうかな?" と言い出します。初めてデイトナでレースを観てから25年?くわしく聞けばそれまでVMX = ヴィンテージモトクロスレースで使っていた、1979年ごろのXR75ルックスにカスタムされたXR100R (改150ccくらい?の暴れん坊) でやりたいと。元々筆者がヘルメット代金の現物払い?で渡した2機のエンジンで組まれた車体だったのは・・・不思議な縁だったのかもしれません。

画像: アップのVMXスタイルからダートトラックらしいJEMCOのダウンマフラーに変えて前後17インチ。150ccあたりまで排気量が拡大されホイールベースはヒャクより短く、可愛いルックスながら暴力的に速いマシンです。

アップのVMXスタイルからダートトラックらしいJEMCOのダウンマフラーに変えて前後17インチ。150ccあたりまで排気量が拡大されホイールベースはヒャクより短く、可愛いルックスながら暴力的に速いマシンです。

イベント出展や仕事の目の回るような忙しさもあって、さすがに毎週走るところまではいきませんでしたが、さすが手業のヒトだけあってその集中力・観察力は並大抵ではありません。めきめきと上達し、筆者とFEVHOTSが主催する月に数度のレースや走行会にも頻繁に参加するようになります。

いつかやりたかった、生涯で一度はハマってみたかったダートトラックライディングに大いに手応えを感じたスーさん、続いては10代のころ鳴らしたスケートボーディングにも立ち戻っていきます。

その後体調的な問題で、繊細な手業で大いに神経を使うサインペイント業にやむなく見切りを付け、仕事場を引き払って様々な持ち物の行き場も調整し、自身と向き合う状況を整えつつある正にその時、彼は再び倒れ、より長期の治療が必要な状態となり、ここ数年はCOVID-19禍で面会やお見舞いも滞るなか、去る7月12日に永眠されたのでした。

画像3: 自分らでレースシリーズやるって?だったら俺にもなんか手伝わせろよ!

病に倒れて以降は本当に大変だったことと想像しますが、それまでの数年は新しいスポーツへのチャレンジと新しい出会い、そして若き日に親しんだスケートと旧友の皆さんとの久方ぶりのリユニオンで、大いに充実した日々だったのじゃないでしょうか・・・。

あのねスーさん、最後まで面と向かってちゃんと言えなかったんだけど、ダートトラックマシンに丸いナンバープレートはあんまり似合わないですよ。伝統的にね。昔取った杵柄のモトクロスイメージなんでしょうけどね。もう一度、できれば角丸の四角形プレートつけて走るところが見たかった。まぁ、頑固で小煩くて議論好きオジサンだから全然聞いてもらえなかったかもしれないけどなぁ。

画像4: 自分らでレースシリーズやるって?だったら俺にもなんか手伝わせろよ!

私どもFEVHOTSは、今般逝去された鈴木貞好選手の、長年に渡る我が国ダートトラック界全体と当団体への多大な貢献の、ほんの一部を後世に伝えるためのささやかな方法として、彼が当シリーズで使用したパーソナルレースナンバーとPetty Painter's Paradiseの頭文字を組み合わせた "97P" を、登録レースナンバーリストでの "永久欠番" とすることを決めました。

Race in peace, AMF!

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