平成元年と言えば、あの280馬力自主規制が誕生した年でもある。その解禁はもうずいぶん昔のような気もするが、実はほんの15年前のこと。それまで技術的「鎖国」状態が続いていたのだ。今回は趣向を変えて、この自主規制の背景と適用1号車となったZ32型フェアレディZについて考察してみる。

自主規制に泣いたのはZ32だけではなかった

280馬力自主規制と言って真っ先に思い出すのが、Z32型フェアレディZだろう。よく言われているのは、Z32がデビューした平成元年(1989年)7月、規制導入にあたってZ32の最高出力であった280馬力を上限として、以後、これを上回ることがないように各自動車メーカーは自主的に規制を行うことになったというものだ。つまり、280馬力にまで達してしまったZ32が、後に続く高出力車の基準になってしまったという説である。

画像: BNR32型スカイラインGT-Rの陰に隠れてしまった感もあるが、Z32に搭載されたVG30DETT型ツインターボは世界的に見ても一級品の仕上がりだった。国内仕様は280psに抑えられたが北米仕様は300psだった。

BNR32型スカイラインGT-Rの陰に隠れてしまった感もあるが、Z32に搭載されたVG30DETT型ツインターボは世界的に見ても一級品の仕上がりだった。国内仕様は280psに抑えられたが北米仕様は300psだった。

確かに、現象だけを捉えれば、国内仕様のZ32は280馬力であった。だが、そこに至る舞台裏には自動車メーカーの事情はもとより、当時の社会情勢や関係省庁の思惑などが複雑に絡み合っていたのだ。

当時の自動車業界は、昭和50年代前半に相次いで施行された排出ガス規制やオイルショックからようやく立ち直り、その証しとして馬力を高めた高性能車で商品価値を高めようという戦略を採っていた。さらに、昭和60年(1985年)に馬力表示がグロスからネット表示に変わり、見かけ上の馬力が下がることを恐れた自動車メーカーは、さらなる馬力向上にやっきとなっていた。いわゆる「馬力競争」の始まりである。一方、昭和50年代後半〜60年代にかけては交通事故死者数が急増し、「第二次交通戦争」と呼ばれていた時代でもあった。

ヒートアップする馬力競争と、激増する交通事故死者数。それまで事態を静観していた運輸省(当時)が、自動車工業会(自工会)に協力を要請したのが平成元年初頭のことだった。

そこに運悪く(?)、引っかかってしまったのが、当時型式申請をしていたZ32型フェアレディZ、R32スカイラインGT-R、そしてインフィニティQ45だったのだ。日産はこの3台を国産車最高峰の「300馬力トリオ」としてデビューさせたかったようだが、関係各方面との調整の結果、280馬力で発売することに落ち着いた。

後年、規制解除を求めて「280馬力になんの根拠があるのか?」という意見が聞かれたが、なんのことはない。理由などなかったのである。事実、Z32もQ45も、輸出仕様は300馬力のままであった。

画像: 自主規制に泣いたのはZ32だけではなかった

ともあれ、この自主規制は平成16年(2004年)6月に自工会が国交省に規制撤廃を申し入れるまで連綿と続いた。その間、自主規制など関係ない欧米メーカーは、オーバー280馬力カーを続々と国内に投入して市場にはねじれ現象が生じた。一方では国内メーカーは輸出仕様と国内仕様を作り分けるなど、余分なコストの支出を強いられてきた。さらに性能・技術的にも海外勢に大きく遅れをとってしまったという側面もあった。

ようやくオーバー280馬力カーが認可されたのは平成16年(2004年)10月。ホンダの4代目レジェンドが300馬力で型式認定を受けて、事実上の解禁となった。以後、日産GT-R、レクサスIS F、ランサーエボリューションやインプレッサWRX STI ほか続々とオーバー280馬力カーが登場する。だが、皮肉なことに国内のマーケットはすでに最高出力を競い合う時代ではなくなっていた。主流はミニバンや軽自動車を含むコンパクトカーへと変化しており、280馬力を超える高性能セダンやスポーツカーは海外需要をあてこんだ高額な車種へと変貌を遂げる。多くのクルマ好きが期待した280馬力自主規制の終焉は、実はクルマ好きが望まなかった方向へと進み現在に至るのだ。そして、自主規制は現在でも軽自動車の世界に残っている…。

規格外のスポーツカーだったZ32は不遇のヒーローだ

さてZ32型フェアレディZとはどんなクルマだったのか、改めて振り返ってみよう。そもそも初代S30型のZは、コストパフォーマンスこそ最大の武器であった。またそれが北米で爆発的なヒットとなった最大の要因でもある。しかし先代のZ31ですでにその兆しはあったが、Z32型はすでに価格で勝負するクルマではなくなっていた。折しも開発期間はバブル景気の真っ盛り、日産車内では「901運動(1990年代までに技術の世界一を目指す)で沸き返っていた。これはスポーツカーとしてのZを追求する追い風となる。つまり、潤沢な開発コストをかけられたのだ。

画像: NAエンジン搭載車(北米仕様)。エンジンパワーだけでなく、シャシにも欧州のスーパーカーと伍して戦えるポテンシャルが与えられていた。

NAエンジン搭載車(北米仕様)。エンジンパワーだけでなく、シャシにも欧州のスーパーカーと伍して戦えるポテンシャルが与えられていた。

「誰にでも乗れるスーパーカー」を標榜し、エンジン、シャシを一新。中でもデザインは秀逸で、FRレイアウトの限界とも言える低く切りつめられたノーズとワイドアンドローを実現。一見ミッドシップかと見紛うスタイルは世界中から絶賛された。搭載されたエンジンはDOHCヘッドをもつ3.0LV6のVG型のみ。ターボのVG30DETT型ツインターボは300ps(国内は280ps)、NAのVG30DEが230ps。これは当時の想定ライバルを上回る数値だった。

前述の901運動の後押しで、シャシにも最新の技術が投入された。3ナンバーボディを前提とした新設計のフロア、前後マルチリンクのサスペンション、さらにターボ車には後輪にスーパーHICASが採用され、ハンドリングも本格スポーツカーと呼ぶにふさわしいものが与えられた。

結果的に価格はそれなりにアップしてしまい、メインマーケットの北米では欧州のライバル車と同等以上のクオリティが認められた反面、高級スポーツカーとして認知されることでかつての廉価なスポーツカーのイメージは希薄となった。販売台数は期待ほどには伸びず、とくに北米市場では2シータースポーツカーの保険料率が非常に割高となり、Zだけでなく2シータースポーツカーの売れ行きが激減してしまったのだ。その結果、平成8年(1996年)には最大マーケットである北米市場から撤退する憂き目に合ってしまう。その後も国内市場ではバージョンRの追加などテコ入れが行われたが、RVブームの影響もあって販売は低迷。平成12年(2000年)9月をもって生産終了した。以後、平成14年(2002年)のZ33登場まで、およそ2年間のブランクを経験することになる。同時期に登場したR32型スカイラインの陰に隠れてしまった感もあるが、その性能・デザインともにもっと評価されていい「名車」の一台であることに間違いはない。

画像: 平成10年(1998年)に追加された「バージョンR」。専用形状のバンパーやリアスポイラー、レカロシートや専用ステアリングなどで商品力アップをはかった。

平成10年(1998年)に追加された「バージョンR」。専用形状のバンパーやリアスポイラー、レカロシートや専用ステアリングなどで商品力アップをはかった。

■日産フェアレディZ300ZXツインターボ2シータ— 主要諸元
・全長×全幅×全高:4310×1790×124mm
・ホイールベース:2450mm
・搭載エンジン:VG30DETT型V6DOHCツインターボ 2960㏄
・エンジン出力:280ps/6400rpm 39.6kgm/3600rpm 
・変速機:5速MT<4速AT>
・新車当時価格:395.0万円

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